理論の「強者」と「ニセ強者」
弱者に対しての意見が書かれた記事があった。
例えば小中学校の学級会において、陰キャでナードな自分がなぜか指名されて、論理的で妥当な意見を述べたとする。
すると、頭の悪い女子が「そんなの良くないよ!みんなの意見も考えて!!」とか言い出す。
そこで無駄に時間を使った挙句に、結局は先生やイケメンの意見をそのまま採用することになる。
それが結果的には自分と大して変わらないことを言っていたら。
そもそもどっちでもいい話で、意見を聞いて判断しなきゃいけないことでもなかったら。
これ小中学校の話じゃないよ!大学や会社においても大体こんな感じだよ!!
今日は、「強者と弱者の義務」について、自分の考えを書いてみようと思う。
目次:
1.弱者の生き方
自分の経験上、たぶん多くの人はネットの言論なんて見ていない。
青息吐息で年収200万円で働いていて、睡眠時間の確保もままならない状態になっている。
高校を卒業した後に工場で働いて、昼休みにたばこを吸ってパチンコの話をしている。
田舎で暮らして軽自動車に乗っている。少し離れた実家の農業を手伝っている。
子育てしながらテレビドラマを見て、今日の夕食のメニューを考えている。
本人たちは、それで割かし幸せに暮らしているのだと思う。
彼らにとってみれば、おそらく日本なんてどうでもいいのだろう。選挙には行く気がないというより、選挙に行く必要がない人たちだ。例え国政が変わったところで、自分の寿命と生活は大して変わりはしない。
そういう見込みがすでにできている人達だ。
言論で正義を追い求めることより、今の日常のほうが楽しい人たちだ。
たぶん、日本の7割はそういう人たちで構成されていて、彼らが日本を支えている。
ある意味彼らは、すでにゴールしている。
「ものを考える必要がない」というのは、それなりにユートピアであるのかもしれない。
例えば、大昔の人類には、肉体が強くなければ狩りができずに飢えて死ぬ時代もあったのだろう。しかし時代が進んで食べ物が市場で手に入るようになり、弱者でも飢えないようになった。人類の能力としては弱くなっているのだろうけど、社会としては進歩をしているのかもしれない。
2.強者が生まれた意味
それに対して、残りの3割の人間は、ネットの言論を見ている。先の例えでいえば、肉体が強い恵まれた狩人の方であるといえる。このブログを見ている人なら、たぶん全員その3割のほうに属しているのだと思う。
そして、その選ばれし3割の人間に問うが、他人の言論を追って、その内容を判断できるような人間になるまでに、随分な手間暇をかけてきたのではないか?
今使っている「考える力」を得るためには、これまで人生で割と大きな部分を割いてきたのではないか?
科学も言論も、全部そうだ。そういったものについては考えないでも本当は生きていけたはずなんだけど、素晴らしい好奇心によって理性的な判断力を、今まで鍛え上げてきたのではないか?
「正しいことを考えるのは人として当然」だとは言っても、心の底ではこう思っているはずだ。工場で働いているあの低学歴連中が、一昼一夜でこんな人間になれるわけがない、と。
自分が思うに、強くなってしまった強者には、真実を追い求める義務があるのだと思う。
7割の弱者の方だって、3割の強者が生み出した成果がなければ、安心して生きることができないはずだ。
損な役目であるのか得な役目であるのかは当人が決めればいいが、強者はそういう役目を背負っているのだと思う。
3.言論や科学で「真実を構築する」という仕事について
自分は、以前の記事に書いたように、「ネットは貧者の核兵器」であると思う。
ネットの言論は核兵器ではあっても、環境が汚染されたり国が消滅したりするわけではない。
自分が思うに、弱者だろうが強者だろうが、意見はどんどん出していいと思う。
例え貧者であっても、自分から意見を発信している時点で、3割の方の強者に位置していると思う。
それに、科学も言論も同じであるが、考えることや発信すること自体のコストは、タダでなければいけない。何か自分の意見を発信するのに権威や手形が必要なのだとしたら、真実を追い求める言論が育つことはない。
間違った言論を発信した場合、その当人の名誉や給料のことは別問題だが、真実の構築する作業においては、「間違ったことを言ってはならない」なんてルールもない。
科学も言論も、間違いの可能性を本気で恐れたら、何一つ発言は出来なくなる。
「間違ったことを言ったら即座に訂正される」というルールが正しい。
4.強者の義務と、弱者の義務
- 自分が考えた意見を言う。
- その中から正しいものを判断する。
- 判断した結果を積み上げてまとめる。
- 次のことを考える。
1.においては、自分が思ったことは何の縛りもなく発信できるべきであるし、間違ったことならば2.で弾かれるからそれで問題はない。3.においては「分かってる嘘」を一つも含ませてはいけないし、4.にたどり着けないのなら、その真実はそこで終わりだ。
真実とは、そのようなルールで構築されている。
自分から意見を発信できる人間は、3割の選ばれし人間であり、1.を始める資格があるが、2.~4.のルールに従えない奴は害悪だから出ていくべきだ。
7割の方の人間に戻って、おとなしく平和にしているべきだ。
自分の意見が間違っているとわかったならば、2.で引き返さないといけない。
気付かないフリして3.や4.に進むニセ強者が、世間には多い。
言ってないことを言ったことにしてはならない。
1.から始まっていないサイレントマジョリティなんてものは、言論の世界において存在が許されない概念だ。
間違いだとわかっている意見を1.に流すのは、厳密には悪だと判定はできないが、2.で無駄な作業が増えるから害悪である。人類の進歩を妨げる悪性ガン細胞だ。
5.エリートの邪魔をする「ニセ強者」
「常に世の中を動かしてきたのは 一握りの天才だ!」と、パプティマス=シロッコが言っていた。
それに対して、「そのために大勢の人が死ぬなんて間違っている!」とカミーユ=ビダンが言っていた。
エリートは数が少ないからエリートという。
例え弱者が数の暴力であろうと、それ自体に正義はあるのかもしれない。
例えば、世界がみんな愚民ならば、愚民向けの政治が必要だろう。
しかし、その頑張っている3割のエリートの中に、ルールに従っていない偽物が混ざっている。
真実の構築のルールに従えないならば、別に死ねなんて言ってないから、7割の人間に戻って大人しくしていてほしい。
これが出来なければ、人間は感情で動く猿と変わらない。
人か獣か。今の社会はその瀬戸際である。
「社会は嘘などついていない。いいね?」
ブラック企業も、働かない政治家も、マスコミの不公平も、他人を踏みつける田舎者も、子供を踏みつけるサイコ教師も。
どれもこれも、唾棄すべき現代社会の病である。
しかし、どれも理屈だけなら、いくらかは通っている。
先日の記事で述べたように、中学生レベルの理ならば確かに通っている。
先日の記事で、「理屈がすべて」だとは書いたが、正論だけですべての理屈がクリアーできるとは言っていない。正論以外にも通さなければならない「理屈」は存在する。
今日はそのことを書いてみようと思う。
目次:
1.嘘を正論として通す方法
ブラック企業や働かない政治家といった社会の大人たちは、嘘つきである。そんなことは中学生でもわかってしまうことだ。
しかし、こいつらは嘘つきではあるが、その嘘を正論として通す方法が存在している。
やり方は簡単だ。ゴリ押してしまえばいい。
また先日の胸糞記事を引用して例を挙げる。
この状況において、確かに妻は嘘をついていたのだが、妻は次のようなことを言って逃れている。
「私が嘘をついていた部分はジョークだからノーカウントだ」と。
「確かに買ってもいい。その分だけ借金は出来るがな」と。
こんなクソ論法でも一応筋は通っているわけだ。
確かにこのケースの場合、夫はジョークを言うことを禁じているわけではない。コートを買うことは要求していても、その予算を家計から盗むなとは言っていない。
コートを買ってあげるというのはもともと嘘だったわけだが、それを嘘にしないことは簡単だ。ジョークだとか誤解だとか言ってしまえば、なんだってセーフになるだろう。
聞いている側の理解力が高ければ高いほど、嘘でも正論として筋が通せてしまう。
2.唾棄すべき、「動かぬ正義」
記事の冒頭に書いた、唾棄すべき社会の病たちも、こういった手段を使って、嘘を正論として通している。例をいくつかまとめてみた。
「だってその方が儲かるし経営者は楽しいしお前らだって働くじゃん」
「ルール違反であっても労基に見つかって処分されるまでは続けるもんね」
仕事をしない政治家:
「選挙に勝ったのは俺だし勝たせたのはお前らだもん。任期があるうちは好き放題やるよ」
「選挙というシステムは悪いかもしれないけど、俺自身は何一つ悪くないもん」
不公平なマスコミ:
「テレビを買って視聴してくれてるのはお前らだろう。放映権だって持っている」
他人を踏みつける田舎者:
「なぜか地元警官と仲がいいから放火しても事件にならないなー(棒)」
「都会から来た医者が自分の病気よりも憎らしいから苛め抜いて自殺させてやるわ!」
子供を踏みつけるサイコ教師:
「生徒が数人鬱になったり人生狂ったりしたところで、私は痛くないもん」
「俺は社会経験もないし大学出ただけだから正しい勉強を教えるのは無理でしたー」
これでチェックメイトである。
お分かりいただけただろうか。すべては筋が通っている。
その正論が成り立っているからこそ、この社会から叩き出せないわけであって。
繰り返す。どんなに悪いことをしても、正論で勝つだけならばマジで簡単だ。
奴らは自分に危機が迫ると、自然にこういう手段を選択する。意固地になるまでもない。
3.「信頼」という、次の話
例えば、小学生がやるような、
「正解したらお金あげるよ」→「(金を持ち上げて)ハイ上げた」
というのも、筋自体は通っているわけだ。聞いている側が勘違いしていただけだという結論も、一応成り立つわけだ。
だが実際にこういった戦法が許されない理由は、一度これをやってしまうと、もう二度と信頼されなくなるからだ。
今後、この小学生が「お金をあげる」と言っても信頼されなくなるからだ。また逆に、同じ論法を使われることで、「お金をもらうこと」もできなくなるからだ。
だからこそ、「(金を持ち上げて)ハイ上げた」というのは、小学生レベルの戯言である。
理屈自体は通っていても、その理屈だけでは後のことが一切クリアできなくなる。
正論で勝つだけでは済まない話がそこにはある。
「理屈こそがすべてなんだから、信頼なんて精神論は知ったことではない」という反論も出てくるだろうが、それはほとんどの場合で成り立たない。
なぜなら、「自分が信頼によって許されている場面」をすでに多く抱えているからだ。
これも、先日の記事の、中二病で例えると分かりやすい。
ナイフを持って殺傷能力を手に入れた中学生だとしても、昨日までママに作ってもらった飯を食って育っていて、ママに買ってもらった洋服を今日まで着ているわけだ。
すでに借金まみれだから、ちょっと「正論」で黒字になったぐらいでは勝てていない。
信頼とはただの心情だけの問題ではない。人と人が共同して活動する以上は、正論と同じぐらい必要であり、すでに使っているものだ。
確かに、正義は正論によって作られているが、自分の手の届かないところは信頼で補わなければいけない。全部のことができていないならば、そういう責任は負わなくてはいけない。
論理と信頼は表裏一体であり、論理を通すならば信頼は失われる。信頼ばかりを通していると論理は破たんする。
今回のコートの話も、正論で勝つだけならば簡単な話であった。しかしそうやってゴリ押した場合は、その分だけ信頼が失われる。今回の件ならば、たったの75000円の案件で一発離婚すらあり得るほど信頼が失われた。ただ、稼ぎの違いと子供の存在でなんとか生き延びることができただけの話で。
4.正論をゴリ押す罪
「その相手には信頼されなくていい」と思うならば、嘘はついてもいい。
ブラック企業やマスコミたちは、嘘をついた方が得だという判断がついたうえで、なおかつ支払えるだけの信頼を十分に持っているから、嘘をゴリ押すという選択が取れている。
clacff.hatenablog.comこの記事で述べた、「会社の上司は何をやっても許される」という事例のように、そもそも有利な立場が固まっているなら何をどうやっても勝つことができる。
信頼というコストを支払ってくれるならば、嘘をつかれても別にかまわない。
嘘をつかれる側としても、相手が信頼できないとわかっていれば、嘘をつくことに事前の覚悟・対処ができる。
しかし、嘘をついておきながら信頼も要求するのは完全に筋が通らない。
ブラック企業をはじめとした社会のゴミ共が、本当に筋が通っていないのはそこのところだ。
ブラック企業もマスコミも会社の上司も、「自分が嘘をついた」なんてことは絶対に認めない。「仕方ない事情で嘘をつくけどごめんなさい」なんて伺いも立ててこない。
いつだって、嘘をついているのに「俺は嘘などついてない。そうだろう?」と脅しをかけてくる。
立場と権力に物を言わせて、理屈の上でも負けたことにされる。
先述したように、そもそも「正論で勝つだけならばマジで簡単」という前提があるが、その自分が勝てる世界から永久に出てこない。
ちゃんと自分の欲望を正直に話しているという点で、「ムカついたから殺す!」と暴れる通り魔のほうが、まだ誠実である。
現代の社会における正義は、エラーが起きていてコンパイルが出来ていないプログラムのようなものだ。
「バグ」ならば残ったままでも動くかもしれないが、「エラー」が起きているということは、それをすべて取り除くまでは動いていないことを意味する。
ブラック企業も、働かない政治家も、マスコミの不公平も、他人を踏みつける田舎者も、子供を踏みつけるサイコ教師も、会社の上司も。
自分が嘘をついているくせに、「嘘をついていない」という大義名分を要求する。支払うべき信頼を踏み倒している。
こんな嘘をつくゴミが一人でも息をしている以上は、社会というプログラムは正義に向かって歩み始めることができない。
むしろ逆に、「俺が死ぬまで楽しく生きれれば正義などいらない」という思想で、現代の社会は動かされている。
「ハイ論破」という言葉が未熟で中二病である理由を語る
「正論だけでは生きていけないぞ」とか、「理屈だけではダメだ」とか、そういった言葉を、人生においては何度も言われることになる。
正論だけを信じたがるその症状は、中二病の一種だ。
みなさんは、この病をちゃんと克服できているだろうか。
「正論で何が悪いんだよ」と強がる中学生に、大人が「正論だけでは生きていけないからだぞ」と答えるだけならば、その大人の価値はそこまでである。はっきり言って中学生と同レベルだ。
今日は、「正論で何が悪いんだよ」と言われた時に、ちゃんと正論で倒す方法を書いてみる。
目次:
1.解答解説
まず結論から言えば、「正論」は100%の正義である。
そこには毒や罠など一切含まれていない。
当人が「人体が判断できる経験則を積み重ねることで真実を構築する」という進化の方式を採用しているならば、「理屈こそが正義」である。
中学生がほざいている「正論で何が悪いんだよ」というのは、別にそれであっている。
「正論だけじゃダメだ」とかいうのは完全に戯言だ。正論だけじゃないとダメである。
科学も技術も宗教も、あらゆる人間の知性や経験則は、すべてこのように作られている。
にもかかわらず、正論だけでは勝てないのはなぜなのか。
答えは、その正論を上回った正論がすでに出てきてしまっているからだ。
- 「勝てるけど、勝った後にどうするのか」
- 「理論では両方勝っているけど、じゃあこれからどちらを採用するのか」
正論で勝った後には、すぐにこのような話がスタートするからだ。
もうすでに、一つの正論は終わって、次の正論が始まってしまっているからだ。
2.なぜ正論を「中二病」と呼ぶのか
一例を挙げよう。
togetter.com先日、このような胸糞記事が話題になった。詳しい話の内容は上記のリンクを見てほしい。
この事例でいえば、「悪いのはどっちだったのか」といえば、それは当然嘘をついている妻のほうなのだ。
それがここでいう「正論」であり、これぐらいのことは中学二年生でも簡単にわかる。
だが、実際には話はここで終わらない。まあこの記事に限れば、他人の夫婦喧嘩を見ているだけだから、後は無視しといても問題ないともいえるが、自分自身が当事者となってしまった場合は、一つの正論だけでは終わらない。
嘘をついたのは妻のほうだった。それは分かった。ならば
- 「じゃあその代償をどうやって払うのか」
- 「それでコートは結局どちらが買うのか。それとも買わないのか」
当然こういった話に発展する。この段階においては既に、妻が嘘をついていたという件については、「ごめんなさい」だけでもう済んだ話なんだ。
裁判と同じで、有罪判決を出したらそれで終わりではない。処分と罰則を決定しないと何も話が完成しないのだ。
先述したように、理屈は正義だ。正論こそがすべてだ。そこまではいい。
だが自分が勝っている地点で考えを止めてしまったら、そりゃ絶対に負けるわけはない。
自分のお小遣いでナイフを買って、「大統領でも朝青竜でも俺が刺せば死ぬしwww」と嘯く中学生。
それは事実だ。確かに大統領も朝青竜も、刺せば死ぬ。それであっている。
「そもそも刺せるわけねーだろ」という話も、一旦は無視できるだろう。「刺したら殺せる能力の有無」という話なら、確かにこの中学生の主張は正しい。
だが、そこまで考えたところで、すでにもっと大きい刃物が迫ってきているんだ。
- 「刺して殺したところでどうするの?」
- 「大統領の方だって君を刺せるけど、この場合どっちが勝ちなの?」
その場の能力でちょっと勝ったぐらいでいい気になって、自分が最強だと思い込む。そこで歩みを止めてしまって、これ以上の正論に気付こうとしない。
だから、中二病と言うんだ。
3.中学生レベルの大人たち
以上、「正論」が持つ正しさと、中学生の未熟さを解説した。
「より高い正論を求め続けること」。これが中二病の処方箋である。
あらゆる科学は「余地があるから」研究しているように、正論は求め続けることによってのみ、初めてその正義が保証される。
それに気付いて自分の中で理解した時こそ、中二病を卒業できる。
というか、本来は15歳ぐらいになればみんな気付いて卒業できる程度の試練だから、中二病と呼ばれている訳で。
しかし社会にはこれに挫折した人が非常に多い。
「正論だけでは生きていけないぞ」とか、「理屈だけではダメだ」という考えに屈服した人が、偉い大人の中にも大勢いる。
端的に言えば、中学生レベルのままで大人になっている。
「大統領でも朝青竜でも俺が刺せば死ぬしwww」と言っている中学生そのものであるが、さらに醜悪なことに、同時にそれでは勝てないことも、大人として覚えてしまっている。
ヤクザや警察のような、「自分のナイフで勝てない相手」は覚えていて、それからは目を背けて見ないフリをする。
一方、親や後輩などの身近な人にはそのナイフを見せびらかして、「俺を怒らせたらお前負けるよ?」と強がる。
これは害悪だ。
自分が勝てない世界はアンタッチャブルとして、自分の勝てる世界だけを保持し続ける。
せっかく正論を作り上げたのに、「自分が勝てないという真実を認めない」という嘘をついている。
その嘘を正論に含ませてしまった時点で、もうその正論はそこから成長しなくなる。
これが中二病を克服できなかった大人の姿である。
futoase.hatenablog.comこの記事で述べられている、「自分が詳しい技術だけでマウンティングをする先輩技術者」が、まさにその中二病を卒業できていない大人の一例だ。
今やっていることに技術的な問題点があることまでは正しいだろう。しかし、「じゃあ今のを止めてその方法を採用するべきか?そのコストは?」といった話には絶対に踏み込もうとはしない。
自分が勝っている地点で考えを止めてしまったら、そりゃ絶対に負けるわけはない。
奴らはそうやって、自身の正義を維持してきた。
こんなんだから理系はキモいって言われるんだよ。
学者や研究者が、「社会不適合者」を強いられる理由
「偉い学者や教授のプレゼンテーションがやる気ない理由」について考察された記事があった。
pipipipipi-www.hatenablog.com 自分の見た目を気にしないで済む人生は、さぞ幸せだろうなぁ。自分もそう思う。
ただし自分が知る限りでは、おそらく多くの学者や教授は、そうなりたくてなったわけではない。
他人の目を意識する能力を鍛えることができなかったという事情があると考えている。
そして、学者や教授の持つ地位と名声が、「そんな惨状でも大丈夫」という環境を許しているのだと思う。
自分もちょっとはそういう世界を見知っているので、書いてみようと思う。
目次:
1.プレゼンテーションというレアスキル
結論から言えば、伝わりやすいようにハキハキ話すということ自体が、すでに割と特殊なスキルなんだと思う。
単に親と学校に育てられるだけの人生では身につかない能力だ。
思い返してみればわかると思うが、ちゃんとしたプレゼンの訓練をしたことがある子供なんてほとんどいないはずだ。
小中学校では、「みんなの前に立って話す」なんてただの罰ゲームにしかならない。
逆に高校生ぐらいになると、みんなの前に立って話せるなんて奴は、イケメン勝ち組リア充である。
小中学校と高校では、スクールカーストの評価項目が変わってしまうからだ。
大学になると、授業やゼミなどでプレゼンの練習をすることもあるだろう。また、就職して会社に入ってしまえば、プレゼンの訓練を特別に時間を取ってすることもあるだろう。
しかし、20過ぎた人間がそこから成長できる可能性は必ずしも高くない。ハキハキ話すというスキルはもはや言語中枢の問題であり、人体に根深すぎる。身だしなみのセンスだって同様だ。
もはやそれは個人の気質の問題であり、ちょっと小手先で訓練するぐらいでは矯正できない。
ちゃんと人前に立ってプレゼンができる人というのは、それだけで割と優秀なコミュ力を持っているといえる。プレゼン能力の多寡はあるのだろうが、少なくとも自分は大丈夫という自信を持っているなら、それはすでに立派なスキルであると思う。
だから、訓練をしていない人のコミュ力を叩くのは、ちょっとかわいそうである。
2.情熱とアジテーションの線引き
「自分の学問に情熱を注ぎすぎているから」という理由であるケースも、人によってはあるとは思う。
しかしそれは、「好きこそものの上手になれ」という幻想の一部だ。
clacff.hatenablog.comこの記事で言及したような、「先天的な手塚治虫タイプ」だと、そういう結果になりやすい。
こういうタイプの人間は、そもそも偉くなってはいけないタイプだと自分は思っている。
別に地位や名声なんかなくたって、学問の価値は変わらないと思っている。
厳密に言えば、本来科学の構築に必要とされるものは、「論理的な正しさ」だけであるはずである。
正しいことさえ言っていればつながっていくのが科学の世界だ。
学問の世界にアジテーションなんて持ち込んではならない。
しかし、「わかりやすいプレゼン」というものを追及してしまうと、割と早い段階でこの問題にぶつかってしまう。
3.「分かりにくさ」を逆手に取る戦術
個人的には、熱狂させるようなアジは元々の真実を歪めてしまうから危険であるが、簡単にしてわかりやすく伝える、というのは学問には絶対に必要だと考えている。
一人でシコシコ論文を書いているだけならば、正しささえ確保できていれば十分であるが、わざわざ時間を割いて他人に話すからには、ちゃんと伝わって理解できる話のほうが絶対に価値があると思っている。
聞いてもよくわからないプレゼンテーションとか、聞く気が起きない論文発表とか、そういうものを無理やり聞かせることは罪であると思っている。
しかし、学問の場においてはとても邪悪なことに、分かりにくさそのものがアジテーションの手段として使われるケースがある。
「ボサボサの髪で聞こえない声で延々しゃべる」というスタイルが、逆に演出として有効になってしまってしまう場合がある。
学問の発表というシステムにおいては、「わからせる必要性」がそもそも薄い場合が多い。
別に全然わからない下手くそな発表であっても、当人にとっては「~の学会でちゃんと発表した」という実績さえあればそれでいい。
実際に割と偉めな学会などに行ってみても、半分ぐらいの人が寝てたり内職してたりする。そんなものだ。正直、居眠り国会を笑えない状況かもしれない。
例え100人や200人の聴衆がいるのだとしても、もともと真面目に話を聞いているのは一握りであり、「話を正しく伝えないとやばい人」はさらにそのうちの数名だけであったりする。しかもその数名が、正しいプレゼンを評価できる人だとも限らない。
むしろ、分かりにくくしたほうが有利な部分もある。なんか難解になってすごそうに見えるし、素人の簡単な質問はシャットアウトできる。
「僕はちゃんと言ったのに理解できなかったの~?ア~ン?」という戦術で有利に立つこともできる。
そして、わかりやすく話してしまうと、「こいつ異端だな」とか「アジ容認派だな」とか、そういうレッテルを張られてむしろ不利になってしまう。
邪悪なことに、学問とはそういった世界である。
4.アジテーションの常用化
以上、学者や研究者のプレゼンがクソである原因を述べたが、その世界が維持される要因としては、もっと根本的な理由があるのだろう。
すなわち、冒頭の記事でも触れられていたように、裕福な立場にいる人達だから、特に本気出さなくてものんびりダラダラ発表ができる立場にいるのだろう。
研究者が大学で講義をやっても詰まらなくなるのはシステム的な問題があるが、「そもそもなんで研究者が教育者を兼任しないといけないのか」という議論にもつながっている。
ちゃんと教えたいのなら専任の講師というか通訳を用意すればいいのだが、そうしてしまうと、研究者が直々に教えているという権威と信頼性()がなくなってしまう。
つまり現代の学問の世界においては、もともと正しく教えることなんてものが目的とされていないともいえる。必ずしも全員に伝わる必要などなく、一握りの者にしか伝わらなくても、むしろそれが選別の意味になる。
髪がぼさぼさでやる気のない発音というものは、選択的にそういうスタイルの者のみが長年生き残ってきた結果でもある。
「分かりやすさ」というのはリソースを割かなくては実現できない特殊なスキルであり、それに気を払わないものが有利になる世界である。
個人的には、リソースを割いてでも分かりやすさは追及しないといけないと思っているが。
【蹴鞠おじさん】知識量で人を裁くことの問題点
先日、「蹴鞠おじさん」の正体についての記事を書いた。
蹴鞠おじさんはメディアの分野に限らず、どの分野にでも現れる。あなたの職場にだって現れる。
この蹴鞠おじさんによって、あなたの仕事や人生が邪魔されるのは、なまじ権力を持っているだけに、非常に危険だ。
今日は、あなたの職場に現れた蹴鞠おじさんとの付き合い方と、倒すための突破口について、書いてみる。
目次:
1.「おじさん身内スポーツ:蹴鞠」の理解
「蹴鞠おじさん」は、一撃でイメージが伝わるとてもわかりやすい例えであるが、先日ヨッピー氏の記事では、「古くて、伝統があって普通の人が理解してないもの」という説明がなされていた。
以下、自分が「蹴鞠」が持つ言葉のイメージをあらためて補足してみようと思う。
~
「蹴鞠」とは、歴史の教科書に出てくる平安時代の貴族がやっていた、あの遊びだ。
詳しくはWikiでも見てもらえばわかるが、別に競技の内容自体は割とどうでもいい。
貴族が、自分たちの考えた面白い遊びに夢中になっている。それがただの余暇として流行っているだけならば微笑ましいことだが、それに夢中になりすぎて本来の貴族の仕事が全然進んでいないことが問題だった。
飢饉が起きようと戦争が起きようと、自分たちは仕事をしないで蹴鞠に夢中になっている。
そして、貴族は金持ちで地位もあるので、そんな状態でも自分たちだけは安全なところで蹴鞠を楽しめるだけの余裕を持ってしまっていた。
同じ貴族の遊びでも、将棋や鷹狩とかだったら、まだ戦争のトレーニングになるだけ役に立つだろう。しかし、蹴鞠は特に役に立つわけでもなく、ただ楽しいだけだ。
人と人をつなげるための道具としては蹴鞠にも価値があるのかもしれないが、残念ながら蹴鞠は身内の貴族だけで流行っているスポーツだった。*1
そしてあまりに全員の貴族が蹴鞠をやっているため、「蹴鞠をやってない奴は貴族失格」などという考えが生まれてしまった。またそれと同時に、「蹴鞠が上手いやつは政治も上手い」という間違った理解も生まれてしまった。
そんなのはただの勘違いなのに、貴族自身の手でそれが正当化されてしまった。
蹴鞠ができないと本当に仲間外れにされるし、蹴鞠が上手かったから偉い人の目に留まって超出世したこともある。
そうして貴族たちは、真面目に仕事をするよりも、真面目に蹴鞠をするようになった。実際にそうやったほうが出世できる期待値が大きい、という既成事実ができてしまった。
貴族が蹴鞠にうつつを抜かしている間に、民は飢えて国は戦争で燃えているが、それでも貴族は自分たちが与えてもらった庭で、蹴鞠の練習を続ける。
~
以上、蹴鞠というものに対する理解を述べた。史実とは多少相違する部分もあるが、蹴鞠にはこのようなイメージがあるからこそ、「蹴鞠おじさん」という言葉が生まれた。
そして、こんなバカな歴史が、今繰り返されている。
仕事をしない平安貴族のように、現代においては知識人や技術者が、正しい仕事をしなくなっている。
2.蹴鞠おじさんの弱点と罪
蹴鞠おじさんには、決定的な弱点がある。先ほど述べたような平安貴族の例で話をしてみよう。
蹴鞠おじさんは、貴族である。
貴族であるからには、武芸一般に通じていて、国の秩序を維持する役割がある。そういう能力を持った人間だからこそ、平民はそいつに国の政治を任せたはずだ。
だから平民として、「隣の山に現れた山賊を退治してくれませんか」と頼んでみよう。
果たして、蹴鞠ばかりやっていた貴族のおじさんに、その力はあるのだろうか。
蹴鞠おじさんができるのは蹴鞠だけだ。それだけに人生を費やしている。
おじさん「ワシは蹴鞠が上手いぞ」
へいみん「蹴鞠なんて上手くて何になるんですか?」
おじさん「バカモン!蹴鞠は貴族のたしなみなのじゃ。政治が分からない平民はこれだから。」
自国の平民だったら、そうやって言いくるめることができる。
しかし、相手が武装した山賊の集団だったらどうなるだろうか。
おじさんはこう言うわけだ。
おじさん「ワシ、蹴鞠が上手いんだぞ!ほら、上手いだろう?」
さんぞく「…」
こうなってしまうことが、おじさん本人もよくわかっている。
だから、危ないところからはガン逃げする。
威張るのは、あくまでも安全な自国の平民に対してだけだ。山賊退治をやる場合は、自分は出向かず専門の軍隊だけに任せる。あるいは、山賊に金を握らせて去ってもらう。
自分に山賊を倒すだけの武力がないということが本人にもよくわかっているから、金か人脈に頼る。そのために金や人脈をため込むように、日々努力している。
先日の記事での例でいえば、マクルーハンは「蹴鞠」であり、自分がそれをよく読んでいいて得意だから、武器として使っている。
この昔話からもわかるように、こういった「蹴鞠おじさん」の弱点は、武力である。
メディアの偉い人であっても、政治・経済・地理・軍事・国際社会・科学・芸能の全部に本当に威張れるほど詳しいのか?と詰められてしまうと、途端に弱気になる。
おじさんは追いつめられると、「僕ちんメディアの貴族だからメディアの話じゃないと嫌ダヨー」というだろう。じゃあ同じメディアの話であっても、例えばアメリカやイスラムのメディアの話は?それぐらいなら日本でも聞けるから出来るのかもしれないが、じゃあ例えばロシアのメディアの話は?と、つついていけば、どこかで必ず隙はできる。
それは当然で仕方のないことであるのだが、それにもかかわらず、自分の得意な武器だけを使って若者を叩いたのが、罪であり問題である。
3.知識量で人を裁くことの問題点
例えば、東京大学に通っている4年生の学生に、もう一度センター試験と東大の二次試験を受けてもらったら、いったい何割の人間が合格できるだろうか。塾講師とか家庭教師とかそういった特別に受験勉強をやっていた者を除けば、おそらく2割にも満たないだろう。
人間の脳が保持できる知識の量など、たかが知れている。だからこそ人は文字を発明して、それを体系化して記録したものを科学と呼んだ。当人一人が暗記して知っているだけの内容なんてものに科学としての価値はない。
例えば、歴史という科目は、本来は暗記科目などではない。過去の出来事がなぜ起きたのか、これから何が起きるのかということを理解して予測することが目的である。昔誰かが言っていたように、7世紀のインドの王様の名前など、本を見ればわかるので覚える意味などない。
物理や数学といった理系科目も同様だ。ただ既存の問題を計算するだけなら、電卓でもコンピューターでも使えば済むだけの話である。本当に問われている能力は、「新しい問題をどのように発見するか」や、「発見した問題をどのような手段で理解するか」ということである。
本の内容を暗記して取り込むだけならばただの作業であり、それをやった者が偉いなどということは、受験本番のときを除けば、まったくない。
だから、知識量だけで人をテストすることは、本来は間違っている。知識量だけでテストをするならば、よほど短いスパンで再テストをしなければ正当性は確保できない。
本来ならば、実際の身体能力や暗記に頼らない思考問題などでテストをしないといけない。そのため、実務経験が科目として必要になるテストも多い。
「暗記なんて本当は偉くない」。
この程度のことは受験勉強のときに気付いてなきゃいけないことであるはずだが、なまじ苦労せずにテストで高得点を取ってしまうと、これに気付くことがなく、そのまま知識量を振りかざす蹴鞠おじさんが出来上がってしまうのだろう。
4.「試験に合格した」≒「忘れてもいい」
受験勉強などに代表されるように、現在の社会においては、人が人を裁くときには、知識量という方法を採用している。正確ではなくても楽にたくさんの人間を判定できるという利点はあるし、それ以外の有用な方法も現状見つかっていないからだ。
だが知識量だけの判定方法を採用することによって、その弊害はそのまま残り続けている。
言ってみれば、試験に合格して資格や地位を得るということは「テストの内容を忘れてしまってもいい」という権利を許すことである。定期的に再テストがある場合でも、「(その時までは)忘れてもいい」という話でしかない。
蹴鞠おじさんは、そのようにして試験をクリアして、貴族になった。貴族になって、「叩かれない身分」を手に入れた。
もし山賊が襲ってきても、自分を守ってくれる軍隊を手に入れたから、自分自身は武力を鍛えておかなくてもよくなった。
これが、蹴鞠おじさんの貴族としての正体である。
だから、蹴鞠おじさんを倒すためには、物理で殴ればそれでいいのだが、それは「貴族」というシステムそのものを殴ることになる。
そんな「貴族」世界は潰れてしまえばいいと自分は考えるが、もともとこの「貴族」というシステムだって、人口が増えすぎたこの社会では、便利で仕方のないことだから採用されたシステムだ。
現状の「貴族」のシステムを破壊してしまうと、国を丸ごと破壊して全部再構築するような、多大なコストと時間を必要とする。
このような世界で、「蹴鞠おじさん」という貴族の横暴から身を守るためには、自分も頑張って試験をクリアして、おじさんと同じ「貴族」になるしかない、と思う。
おじさんよりもさらに偉い貴族になって、遠い将来におじさんを処刑することが、「貴族」という古いシステムを正す一番の近道なのだと思う。
*1:史実では一般庶民にも広まっていたらしいが
「蹴鞠おじさん」と「教養科目」
「蹴鞠おじさん」
とても便利で、悲しい言葉が生まれた。
自分は、「ネイティブ広告ハンドブック」の内容については特に興味がない。
マクルーハンなんて名前は初めて聞いたというレベルだ。
しかし、この「蹴鞠おじさん」という概念については強い興味がある。
自分も頭に来たから、現状の理解をまとめてみる。
目次:
1.どこにでも、どこまでも、蔓延る「蹴鞠おじさん」
「蹴鞠おじさん」。
ヨッピー氏の表現をお借りすれば、以下のような概念のことを指す。
古くて、伝統があって普通の人が理解してないもの
ギョーカイの人がギョーカイの言葉でギョーカイのルールを作ってる上に、「俺たちはギョーカイ人なんだぞ!」っていう選民意識がめちゃくちゃ強い。
こういう輩は、メディアの世界だけではなく、どこの世界にもたくさんいる。本当にいる。
そして嘆かわしいことに、理性的な理論と議論によって成り立つべきである、技術や学問の世界にも、たくさんいる。
「素人が口を出すな、技は見て盗め」とかいったようないわゆる「職人気質」が、この蹴鞠おじさんに本当にそっくりだ。
発言した若手が「素人である」ということ自体を問題にして、本質的な議論を全く進めようとしない人だ。
若手がごめんなさいと言ったら、説教の後にようやく話し始めるが、結局は大したことを何も言えない人だ。
今回のケースでは、キモい語り口がオタクっぽいと評判だが、これはただのオタクのマウンティングではない。
「おじさん」というところが大事な点で、この硬直したキモさとうざさは、クソ人間を拗らせた上で、適度な権力を与えて数十年間じっくり熟成しないと生み出せない。ある種の芸術品だ。
「蹴鞠おじさん」というネーミングはとても的を射ていると思う。
2.マウンティングこそが正義、という思想
いろんな業界にいる、こういった「蹴鞠おじさん」は、根本的に人をマウンティングすることしか考えていない。
マウンティングをすることによって、教養がより高いレベルに洗練され、それが業界全体のプラスになる、という思想のもとで行動している。
「蹴鞠おじさん」は、その場その場で各々がマウンティングをすることによってのみ、その世界で正義が生まれて育つと考えている。
マウンティングこそがすべてであり、それ以上のことを考えない。
だから、自分が勝てる世界ならばそれで美しい、という思考に流れていく。
まあ、自分の数十年の人生だけですべての世界をくくってしまうのならば、そういう考え方である意味正しい面もある。蹴鞠おじさんの生き方も、一理あるといえば一理ある。
こういう「蹴鞠おじさん」は今までマウンティグによってのみ世界を組み立ててきたので、科学や技術などの世界が成り立ったような、そもそもの本質的な意味を知らない。
以前の記事で述べたような、「お前のスマホのために科学をやっている」といったような、馬鹿な傲慢な回答をしてしまうのは、大抵こういうタイプだ。
clacff.hatenablog.comスマホが科学の目的ではないように、マクルーハンだって、別にメディアに携わるための第一の手段などではないだろう。こんな簡単なことにすら気付けない思想だ。
人を踏むための武器として、マクルーハンを持ち出している。
そもそも相手が知らないことを期待して、「マクルーハンって知っていますか?」とか切り出している。当人は優雅で優美なつもりでいるのだろうが、そこには最初から悪意しかない。
3.大卒以上の人間が持っている、「教養」という武器
社会では、このような「蹴鞠おじさん」が大勢、高そうなスーツを着て、毎日偉そうに仕事をしている。というより、本当に偉い。
いい大学を出ていっぱい勉強をしてきているから、無責任なマウンティングができる人間になれた。
教養というものは、人を踏むための武器として使われている。
現代の社会においては、少なくともこれは事実である。それ自体は認めざるを得ない。
日本の教育カリキュラムにおいては、大学生になったらなぜか突然「教養」というものを勉強する。特に生活や受験に役に立つわけでもないのに、なぜか優雅に、今まで目も向けてこなかった雑学科学や、歴史や哲学についてかじり始めることになっている。
本当は「教養」には、自分の知っている世界を広めること、その知った新しい世界観を利用して、本来の専門分野を世界を広げること、そういう目的があったはずだ。
だからこそ、大学4年間の約半分もの時間を、本来の専門とは関係のない分野でわざわざ「教養」として勉強してきたはずだ。
そのはずだったのだが、教養というものは、「様々な分野を幅広く」「優雅に優美に」という性質上、金持ちで裕福な大人たちが駄弁りあいをするのに非常に便利なツールである。
だからこそ、大学生は教養の勉強をすることになった。現在においては、本来の教養の意義はとっくに失われて、このような目的のために「教養」を勉強をしている。
これと同様に、世間の大人たちが、「本を読め」とか「ニュースを追え」とか小言を言い始めるのも、なぜか大学生になったあたりからである。
本当に世界を広げたいだけだったら、もっと早くから勉強していてもいいはずだ。
4.「教養」で殴り合う社会の問題点
例えば、「お嬢様がやる和琴のお稽古」は教養であるが、「スラムの餓鬼がやるロックバンド」は教養ではない。
例えば、「ジェンダーの視点から考える21世紀の日本社会講座」は教養であるが、「BLAZBLUE初心者立ち回り講座(起き攻め対応)」は教養ではない。
教養とは、金持ちで裕福な大人たちが駄弁りあうためのツールであるので、「様々な分野を幅広く」という目的だけでなく、「優雅に優美に」という条件も達成していなくてはいけない。
そんな事情で文化の貴賤が決定されてしまうのは問題だが、それ以前にもっと大きな問題がある。
そもそも教養とはそれ単体では無力であり、何の論理も達成できないことだ。
そんな役に立たない「教養」なんてもので、他人を踏もうという思考が、そもそも問題である。
教養とはその世界だけで勝手に設定された真実であり、目の前の問題が解決してくれるものではない。
経済学の概念と理論を述べたところで、外注先の納期を一日でも縮めることができるのか?
コンピューターサイエンスの歴史と偉人が言えたからといって、目の前のスクリプトを一行でも進めることができるのか?
ギョーカイの人がギョーカイの言葉でギョーカイのルールを作っている。そのギョーカイからは一歩も出ることができない。
もう一つの大きな問題は、「教養でバトったところで、結局は権力の勝負にしかならない」という点である。
教養とは、「様々な分野を幅広く」「優雅に優美に」という性質があるため、絶対的な真実の基準がないし、いくらでも後出しジャンケンが可能だ。
その当人の立場と権力が許す限り、真実の基準を勝手に定めて、後出しジャンケンをすることができる。
結局は権力が足りない側には最初から勝ち目はない。また、逆に権力のある側が確実に勝つために必要な戦場が「教養バトル」であるともいえる。
このバトル戦う方法、すなわちこのバトルに「正しく負ける方法」は、これから社会の大人と戦う大学生たちにとっては必須科目であるわけだ。
今回のケースでのバトルを観察してみても、この人は権力については非常に慎重に話をしている。
例えばこの人は、マクルーハンは語ることができても、アスラン・ザラは語ることはできないだろう。
もしそれを切り出したら、「アスラン・ザラはメディアには関係ない」といって当人は逃げるはずだが、あれだけ売れて長く続いているテレビシリーズの話なんだから、関係ないことはない、と言い切ることだって可能なはずだ。
しかしその論理の余地を握りつぶして、「(自分には)関係ない」と言い張って制定できる権力があるから、ああいったマウンティングが成り立っていた。
また、「メディアの話をさせたら長いですよ」という切り口で話していること自体が、人を踏むことを第一目的にしている証拠であり、内容自体には実は自信がないということを表している。本当にすぐに十分語れるのならば、こんな前置きはしないで語り始めているはずだ。
まずは権力差をわからせたうえで、慎重に話を始めようとしていることが観察される。
5.それでも「蹴鞠おじさん」は生きる
togetter.comインターネットの言論において、「僕に「○○」の話をさせたら長くなりますよ?」という伝説が生まれた。
それでちょっと気になっていることがある。
世間の「蹴鞠おじさん」達は、今回ボコボコに馬鹿にされているけれど、言い返したりはしないのだろうか。
インターネットで自分たちがここまで言われていたら、見て見ぬふりをすることは結構難しいと思う。自分だったら恥ずかしくて枕の中に頭突っ込んでいると思う。
「蹴鞠おじさん」のほうに、本当に真実があるならば、だんまりなんてしてないで、コメント欄に乗り込んで全員たたき伏せるぐらいのことできるはずだ。
それができないということが、つまり奴らが真実ではなく権力で動いているという証拠だ。
正論で説き伏せることはできないと自分で分かっているから、自分が不利な状況ではガン逃げを決め込む。
結局のところ、この蹴鞠おじさんたちは、自分が持っている武器が蹴鞠しかないと、とっくに認識している。いい大学を出て無駄な勉強を重ねてきた人生しか持っていないと、とっくに気付いている。
だからこそ、その無駄な勉強で無双ができる蹴鞠の世界は、死ぬ気になって維持しようとするだろう。
あと20年ぐらい待っていれば、「蹴鞠おじさん」達は死滅してくれるかもしれないが、奴らは、自分の弟子にも同じような思考を伝授しているだろう。
この連鎖を断ち切るためには、弟子のほうが目を覚まして意識しないといけないと考える。
「現在、社会で幅を利かせている大人たちなど、この程度である」。
次の世代の若者たちには、ぜひともそれをブッ倒してもらいたい。
そんな未来を期待したい。
自動車免許学科試験の「クソ問題」と、それを生き延びる方法
「自動車免許を取る時の学科試験って、ひどいひっかけ問題ばっかりだったよね?」
こういう話題が、免許を取ったことのある人には誰でも通じてしまうという異常事態が、放置され続けている。
例えば、このようなクソ問題だ。
Q1.原動機付き自転車は公道で50km/h以上で走ってはいけない。
答:×30km/h以上で走ってはならないから
Q2.夜の道路は危険なので気をつけて運転しなければならない。
答:×昼夜問わず気をつけて運転しなければならないから
Q3.標識のない道路を運転する時、100km/h以上で走行してはいけない。
答:×原付は30km/hまでだから
Q4.公道を一般自動車で運転する際には必ずシートベルトを装着する必要がある。
答:×一般自動車でなくてもシートベルトをしなくてはならないから
Q5.制限速度30km/hの道路では、その制限速度を超えて走行することは許されない。
答:×非常時はその限りではないから
たったの5問だが、初見で満点取るのは確実に無理な問題群だ。
教習所に行って免許を取ったのはもう何年も前だ、という人も多いだろう。しかしこれは昔話などではなく、現在においても、当時と変わらぬクソ問題が量産されている。
若者たちの答案にバツ印がつけられて、一方的に裁かれている。
今日は、こうした悪問が「なぜ許されているのか」を書いてみる。
また、その悪問に「対処して生き延びる方法」も模索してみる。
目次:
1.理不尽で読めない後出しジャンケン
今回あげたような自動車免許の学科試験に限らず、「理不尽な後出しジャンケン」や、「どうやっても能動的に正解を選べない」といったような事態は、人生においては様々な場面で直面する。
子供から大人まで、学校生活・受験勉強・入社試験・昇格試験など、どのような場面においてもそれが出てくる。
受験などの、何か試験をするタイミングだけではなく、先日の記事に書いたように、権力で上回っている人が近くにいればそれだけで、「理不尽な後出しジャンケン」は許されてしまう。
今回の自動車免許の学科試験のように、権力を握った側は、明らかな嘘の答えですら通すことが出来る。
そしてその上で、「こんな簡単な問題で100点が取れないのか」というマウンティングまで出来てしまう。
「人生に一回ぐらいなら、ちょっと理不尽な問題をやらされたっていいじゃない。最終的には免許もとれたんだし。」といったような言葉では済まされない結果であるし、許してはならない。
「昔は日付変わるまでサビ残して会社に泊まりこんだものだ」とかいうブラック自慢を強要するのと同程度には、有害で邪悪な風習である。
2.なぜこのようなクソ問題が許されているのか
例えば先の問題のQ2を見てみよう。
Q2.夜の道路は危険なので気をつけて運転しなければならない。
答え:×
理由:昼夜問わず気をつけて運転しなければならないから
100%疑いなく日本語が不自由であり、誰がどう見ても悪問である。
一応この問題の主張としては、「問題文をきちんと読まない受験生を落としたい」とか、「ひっかけ問題にしてでも原付は30km/hまでと深く印象付けたい」といったものがある。しかし、それらの理由は全部後付である上に、方法も結果も間違っている。
「普通にやると簡単に100点とれちゃうから意図的に不可能な問題を作って平均点を調節している」という説もある。
だから、100点はもともと無理なのでこんな問題は考えないで飛ばすべき。ほかのところで合格点を確保すればいい。という意図が出題側から出てくることもある。
しかし、考えなくていい問題なんて一つもないんだよ。
「どこまで考えるべきか?」がクソになっているからそもそも困っているわけで。
全部の問題で「よく考えて」しまえば、0点にだってなってしまう。
このように、こういった問題はどうやって言い繕っても悪問でクソ問題である。
問題製作者は一体何を考えているのだろうか。
「もちろん何も考えてない」。
過去の問題と同じようなクソ問題を継続することだけに心血を注いでいる。
とにかく前例に倣い続けることで、不公平感を出さないように頑張っている。
自動車免許は、現在ものすごい数が発行されている。
https://www.npa.go.jp/toukei/menkyo/pdf/h25_main.pdf
もし、学科試験のクソ問題を改善したことで、何か効果が起こってしまったら、取り返しがつかなくなる。
仮にそれが良い効果であったとしても、それを証明するのにものすごい手間がかかる。
関わる人口が多すぎて、メンテナンスのコストが改善のメリットを上回っているため、全く身動きが取れないという状態になっている。
何か本当に良い改善ができるのだとしても、自動車の免許であるため、何かあれば命にかかわる問題になる。そのため判断には高いコストを支払わなくてはならない。
運転免許の利権や、免許人口の調節も、動けない理由の一つであろう。
一番最初に「クソ問題を作って合格率を操作しよう」という横着をしたツケを、未来永劫払い続けなければならない状態だ。
大体、クソ問題を絶対に作らないというのはかなり難しい。
問題は過去問と一つもかぶってはならないし、その上で、正当かつ測定効果がある問題を作り続けなければいけない。練習問題も含めれば膨大な量の問題を作らなくてはならない。
そんな難しい問題を、教習所の教官達が、サビ残して日々作り上げている訳だ。
そりゃあ間違いの10や20は存在するに決まっている。
以上のように、学科試験のクソ問題を改善することは、システム的にも現場的にも土台無理な話である。
そして、それを当然の事として運転免許の関係者たちは日々働いている。
奴らは永久に反省できない。
3.「クソ問題」を生き残る方法
このように、運転免許の学科試験のクソ問題は、現在の社会では回避不能なコストである。
そして人生においては、運転免許に限らず学校や職場等でも、同様のクソ問題は何度も解かされるだろう。
それに対処して生き残る方法も、一応いくつかはある。
まず一つ目は、正攻法と言っていいのかどうかは不明だが、例えば先のサイトでも紹介されていたような、「問題文に必ずとか絶対とかって文言が入ってたら大抵×が正解」といったテクニックを積み重ねることである。
文系の受験問題や公務員試験のように、こういった戦法が前提となっているような戦いもある。
しかし、こういうテクニックをいくら積み重ねたところで、それでも潰せてしまうところがクソ問題のクソたる所以であるが。
次に、「その一問の結果で一喜一憂するような状況がそもそもダメ」だという考え方もある。本当にちゃんとできる人間ならば、ほかの部分で合格点が取れるから、クソ問題にいくつかあたったところで死にはしない、という理論だ。
クソ問題を出題する側も、アリバイとしてよくこの理論を使うが、やはりそれでも正しくはない。
たとえ一問の得点であっても、タダで奪っていい理由などあるはずがない。
それに、そもそもクソ問題においては「考えるべき範囲」というものすらクソになっているため、そのたった一問と同じ方法で、残りの99問も不正解になり得てしまう。
こういったクソ問題においては、考えれば考えるほど損になる。そして、そのような試験で選ばれた社会では、まじめにものを考える人間などいなくなるだろう。
しかし、実際にそういう社会になりつつあるし、もともと社会はそういう人間こそを望んでいたのだとも考えられる。そういう意味では、テストとしては正常に機能しているのかもしれない。
クソ問題に翻弄されて、どうしても正解できない人は、まず人間の思考をやめてみよう。
人間として理性的に推論するのではなく、「求められている受験生」として機械的に判断してみよう。
この社会における勝者たちの多くは、そうやって正解率を上げてきた。