【少年漫画】相手の自信を折れば強く育てれる【読みすぎ】
このような記事が話題になった。
「詐欺師症候群」という言葉は、医学的に認められた症状ではないが、最近になって作られた言葉でもない。1972年から存在しているそうだ。
「詐欺師症候群」って、日本においてはかなりの割合の人が、多かれ少なかれ身に覚えがあると思う。
何か成し遂げたら「それが当たり前」と言われる。自信を持ったら「上には上がいる。つけあがるな」と言われる。学校教育においてこういう言葉を必ず聞かされるからだ。
他人の「自信を折る」ということには、どういった意味や効果があるのだろうか?
自分の考えを書いてみる。
目次:
1.「自信」とは、何に使用するものなのか
自信という言葉は、自分を信じると書く。
自分を信じて何になるかといえば、「自分自身に対する理解」が確かめられることであろう。
自分自身を理解するということは、自分自身が意思や行動を決定する力を意味する。
どんな小さな行動であっても、自分に自信がなければ、自分の意志では行動できなくなる。
別にこれは、あいまいな精神論などではない。
例え理数科学であっても、人間が作成して運用している以上は、確実にどこかで「信じてエイヤと踏まなくてはならない部分」が存在している。
「分子は原子の集まりである」だなんてことは、誰も保証などはしていない。
「1+1は2である」というのは、人間自身が勝手に決めたことだから正しいのかもしれないが、それにしたって「この文言を見た人間全員が、今まで全部計算間違いをしていました」という可能性がゼロだとは断言できない。
どんな理論や科学も、その中身は「そう信じるならばこういう結果が導かれる」という例を組み上げた集合体でしかない。
人間が行うすべての思考や行動は、「信じること」によってのみ確定される。
自信は、自分が思考をして生きていくためには絶対に必要なものであり、仕事にだってもちろん必要だ。スポーツ選手や創作の分野だけではなく、本当に自信を奪ってしまうと、ただのデスクワークはおろか刺身にタンポポを乗せる仕事すら成り立たなくなる。
自信とは、「折るべき天狗の鼻」などでは断じて無い。
2.「挫折が人を強くした」という例を挙げよ
自信とは、人間が生きて行動をしていくうえでこんなにも大事なものなのに、他人の自信を砕くことで悦に浸るような悪趣味な人間が、多く存在している。あろうことか、教育機関や企業の上層部に。
「挫折させれば強くなる」などという思考は、少年漫画の読みすぎだ。
いや、この記事のタイトルにもそう書いたが、本当は違う。少年漫画の内容すら正しく読めていない。
いくつか古典的な例を挙げてみよう。
例えば原作8巻の時点で、初めて悟空を完璧に負かした桃白白@ドラゴンボール。
この例では、悟空が「今の自分より強い敵を倒さないといけない」と認識し、即座にカリン塔へ修行に向かっている。
これは次の展開に必要な情報が開示されただけの例であり、そもそも挫折などしていない例だ。
あるいは、傲慢な心から下半身不随になり、そこから這い上がるためにレースに参加したジョニィ・ジョースター@スティールボールラン。
挫折がジョニィを成長させたというのは結果論であり、最初から挫折がなかったら、こんな冒険はそもそも始まっていなかった。
「ただマイナスからゼロに戻りたいだけなんだ!」と作中で何度も言われている。
後有名な例としては、独房に入れられて「僕はあの人に勝ちたい…!」とこぶしを握るアムロ・レイ@機動戦士ガンダムだろうか。
あのときブライト達は、アムロが現状持っていた自信を折るために独房に入れたのでは断じてない。チームワークを乱した罪、ガンダムを勝手に持ち出した罪に説明をつけるために、独房に入れた。
云わば、「よけいなことする」という悪い自信を折ったという処置であり、元々あった自信を折ってどうこうしようという目的ではなかった。アムロが独房から出た後だって、「余計なことをしても失敗しないようになった」なんてわけでも全くない。
以上、パッと思いついた有名な例をいくつか挙げたが、「挫折したから強くなった」という例は、少年漫画においてすらあまり無いように思うんだ。
間違った自信を折ったことで強くなった、という例はあるが、折ってはいけない自信が折れてしまった場合は、確実に最悪な結果になっている。そのマイナス状態から頑張ってようやくゼロに戻った、という物語になる。
まあより高次的な話を無理やりすれば、挫折という特殊な精神状態と、戦っていないという時間と作業の余裕が、何か役に立つことを生み出すということはあるかもしれない。落人群で落ちぶれた剣心@るろうに剣心なんかはそんな例だろう。
獅子は千尋の谷にわが子を突き落すという逸話があるが、これは美談ではない。間引きだ。
ただ落とすだけでは危険な思考停止でしかない。そして失敗した結果は落とされた本人が負う羽目になる。戦っていないという時間と作業の余裕も与えないというのでは話にもならない。
3.折られても成長をしなければいけない被害者たち
もちろん、人が戦士として成長する過程においては、挫折をしてしまうこともあるだろう。
しかし、挫折したからと言って強くなるというのは完全に間違いだ。
もしGP01が最初からフルバーニアンだったら、シーマのゲルググは最初から圧倒できていた。最初からちゃんと自信を持っていれば、大抵のケースで、挫折させられたよりもいい結果が出る。
お前より強いやつがいるんだぞなんて情報は、多くのケースで必要ない。
本当の戦士ならば、そんなことはとっくにわかっているからだ。
上がいるからこそ、自分が今まで強くなってきたに決まっているのに、そんな当然の事もわかっていないことにされる。
こんな暴言を吐く相手が、ただの無関係な人間や敵ならば、無視ができるだけまだマシだが、それを師匠や上司が言ってしまうと、相当の失望を向けられることになるし、チームとしてのパフォーマンスも台無しになる。
最初の記事でも述べられているように、「助けてくれた人がすごかっただけで、私の実力ではない」と。折られた者は考えるようになる。
もし師匠や上司が、相手の自信を折り続けるならば、これが本当のことになってしまうんだ。折られた者は、その状況で完全に正しい判断をしていることになる。
自信という武器を取り上げられたまま戦うことを強いられる被害者たち。
そんな状況で結果が残せるのなら、確かにそいつはすごいやつなんだろう。
「這い上がってくるなら本物です」ってバニング大尉も言っていたが、本物だったらそもそも一人で成長できる。
【円グラフ】「あいまいな判断」を武器として逆手に取る戦法【統計の嘘】
先日自分がパソコンを立ち上げてみたら、こんな画面が出てきた。何かをインストールしろと言っているようだが、面倒なのでいつも無視している。
ところでこのグラフは、統計結果を表す際に、一か所ずるい表現が使われていることに気付いた。
この手法について調べても意外と出てこなかったので、その詳細を調べてみた。
また、統計データというものとの付き合い方と、その判断をする権利のありかについて、まとめてみる。
目次:
1.「嘘統計」に対する耐性の進化
ここ10年かそこらで、「統計データの嘘」というものはずいぶん見破られやすくなったと思う。インターネットによる情報革命により、昔は押し通せていた嘘が、すぐに指摘されるようになった。
例えば、ニュース番組でこういうグラフが出てきたら、すぐにツイッターで突っ込みが入るようになった。インターネットの普及により、個々の判断力による正義は着実に育ってきているように思う。
統計データで嘘をつく手法の実例は、検索すればたくさん出てくる。
以下のサイトは見やすいしお勧めだ。
また、こんな風に偽グラフをでっちあげてくれるような面白ツールも見つかった。
2.円グラフという表現手法について
そこで改めて今回のグラフをみると、円グラフが0時から始まっていない。
円グラフが0時から始まっていない故に、56%という数値が上からかぶさる形になり、より大きく見えてしまう。56%のピースが、円の90度単位の区切りのなかで一番目に入りやすい0時の線を突破していることで、より大きく見えているように思う。
例として、同じような5%・9%・30%・56%のグラフを三種類並べてみた。
56%という項目を一番強調したいなら、確かに一番右のグラフがよさそうじゃない?
しかしさすがパソコンの会社であるDellが出しているグラフであり、それ以外にはそこまで嘘はないように思う。数値の割合は角度の通りだし、色使いにも不自然な点はない。
項目の分け方が「データ損失に備えてバックアップソフトを用意しろ」という結論に向けているようには見えるが。
そこで今回重要な点は、「円グラフは0時から始めないといけない」というルールは実は存在していないということだ。エクセルの機能でも、簡単に回転ができる。
円グラフは元々、通常のxyグラフなどのように、科学の世界で定義されたものではない。最初に使い始めたのはコンサル業界であるらしい。
色々調べてみたが、JISや業界規格といった、科学以外で円グラフのルールが定義されている共通の文書も、見つからなかった。
むしろ、円グラフはあいまい表現だから使ってはならない、という例はいくつか見つかった。コンサル会社などでは、このような教育がなされているらしい。
そういうわけで、今回Dellはルール違反もしていないと言えると思う。
「特定の結論に導きたい」という意志は発揮されていたのかもしれないが。
3.統計結果を表現するルールについて
統計学とは表現手法の研究であり、証拠や経験則を提供する目的の分野ではない。
統計学は数学と同じで、人間がルールを作り、それを解釈して利用する分野である。
自然科学というよりは、文学に近い。
大げさに言えば、統計の表現にルールなどない。
円グラフや棒グラフなどは、読者の目に馴染みがありそうだからその場で選んでみた手法、といった程度の意味でしかない。
「円グラフはコンサル会社では使われていないから使っちゃダメ」ということも、そのコンサル会社の範囲の正義でしかない。
さらに言ってしまえば、例えばこれのようにデタラメな円グラフであっても、「新しい表現方法のグラフです!名前は”えんぐらふ”です!」と言ってしまえば、問題がないことになる。
一応、判断材料として役に立たないということがすぐにばれてしまうから、表現方法としては定着されないで駆逐されていくが、そうやって駆逐されるまでは有効性を帯び続けるわけだ。
4.人間の知性に伴う、「判断をする責任」
統計結果は自由に表現が出来るものであり、それ自体は何かを証明する証拠にはならない。
統計結果を見て、それをどう判断するかは別の問題である。
本当に重要なほうは、統計の表現方法ではなく、それをどう判断するかの方だ。
例えば、市民の全員にアンケートをして、「喫煙者は~%でした」という統計結果を得られたとする。
この「喫煙者は~%だった」という地点までならば、全員に共通の事実であると仮定できるが、それで「喫煙者が多い」と言う判断をすることは別の問題である。
多いか少ないかの判断は、各自に委ねられるあいまいなものだ。
当ブログの参考文献の記事でも書いたように、根拠が示された後に、判断するのは読者の仕事である。例え参考文献がウィキペディアであろうとも、その内容が現状で正しいのならば、それは有効である。
その判断を他人に委託しようと思うのならば、いくつかの権限は捨てなければいけない。
理解の手間を割くことができない、という事情で、判断をゆだねるということは有りだが、その場合は判断結果に文句を言ってはいけない。
判断をゆだねることを辞めるか続けるかは選べるが、判断結果にケチをつけることはできない。
5.判断をする権限を、武器に転用する者たち
また、統計は判断材料にはなるが、それだけでは完璧な証拠にはならない。
どんなに情報がそろっていても、すべてを完全に証明できるなんてことは自然界にはあり得ないため、最後の判断自体は、誰かがエイヤと踏まなくてはいけない。
それはそうなのだが、では誰がその判断をするのか?
先述したように、読者それぞれが判断をすることになっているが、会社などの組織で判断をしなければならない場合は、その役割と権限を委託されている社員が行うことになる。
すなわち大抵の場合で、「上司」が行うことになる。
責任を持った上司が「判断」をしなければならないわけだが、統計データというものは、元々絶対的な答ではないため、そのあとの判断については曖昧さを含ませざるを得ない。
そういう状態で、先日の記事で述べたような、権力を持った側の「チート武器」が好き勝手に使われる。
権力を持った側が、答えを一方的に制定できてしまう。
その一方的な判断をするのに、データが多いとか少ないとか言った要求をすることが出来る
判断の権限を一旦渡しておいて、すぐに取り上げるというカウンターも可能だ。
統計は判断材料にはなるが、証拠にはならない、という事実を意図的に無視できる。
統計データという判断材料は、「武器」である。
マスコミや上司など、その武器を一方的に取ることが出来る強者も、世の中にはいる。
理論の「強者」と「ニセ強者」
弱者に対しての意見が書かれた記事があった。
例えば小中学校の学級会において、陰キャでナードな自分がなぜか指名されて、論理的で妥当な意見を述べたとする。
すると、頭の悪い女子が「そんなの良くないよ!みんなの意見も考えて!!」とか言い出す。
そこで無駄に時間を使った挙句に、結局は先生やイケメンの意見をそのまま採用することになる。
それが結果的には自分と大して変わらないことを言っていたら。
そもそもどっちでもいい話で、意見を聞いて判断しなきゃいけないことでもなかったら。
これ小中学校の話じゃないよ!大学や会社においても大体こんな感じだよ!!
今日は、「強者と弱者の義務」について、自分の考えを書いてみようと思う。
目次:
1.弱者の生き方
自分の経験上、たぶん多くの人はネットの言論なんて見ていない。
青息吐息で年収200万円で働いていて、睡眠時間の確保もままならない状態になっている。
高校を卒業した後に工場で働いて、昼休みにたばこを吸ってパチンコの話をしている。
田舎で暮らして軽自動車に乗っている。少し離れた実家の農業を手伝っている。
子育てしながらテレビドラマを見て、今日の夕食のメニューを考えている。
本人たちは、それで割かし幸せに暮らしているのだと思う。
彼らにとってみれば、おそらく日本なんてどうでもいいのだろう。選挙には行く気がないというより、選挙に行く必要がない人たちだ。例え国政が変わったところで、自分の寿命と生活は大して変わりはしない。
そういう見込みがすでにできている人達だ。
言論で正義を追い求めることより、今の日常のほうが楽しい人たちだ。
たぶん、日本の7割はそういう人たちで構成されていて、彼らが日本を支えている。
ある意味彼らは、すでにゴールしている。
「ものを考える必要がない」というのは、それなりにユートピアであるのかもしれない。
例えば、大昔の人類には、肉体が強くなければ狩りができずに飢えて死ぬ時代もあったのだろう。しかし時代が進んで食べ物が市場で手に入るようになり、弱者でも飢えないようになった。人類の能力としては弱くなっているのだろうけど、社会としては進歩をしているのかもしれない。
2.強者が生まれた意味
それに対して、残りの3割の人間は、ネットの言論を見ている。先の例えでいえば、肉体が強い恵まれた狩人の方であるといえる。このブログを見ている人なら、たぶん全員その3割のほうに属しているのだと思う。
そして、その選ばれし3割の人間に問うが、他人の言論を追って、その内容を判断できるような人間になるまでに、随分な手間暇をかけてきたのではないか?
今使っている「考える力」を得るためには、これまで人生で割と大きな部分を割いてきたのではないか?
科学も言論も、全部そうだ。そういったものについては考えないでも本当は生きていけたはずなんだけど、素晴らしい好奇心によって理性的な判断力を、今まで鍛え上げてきたのではないか?
「正しいことを考えるのは人として当然」だとは言っても、心の底ではこう思っているはずだ。工場で働いているあの低学歴連中が、一昼一夜でこんな人間になれるわけがない、と。
自分が思うに、強くなってしまった強者には、真実を追い求める義務があるのだと思う。
7割の弱者の方だって、3割の強者が生み出した成果がなければ、安心して生きることができないはずだ。
損な役目であるのか得な役目であるのかは当人が決めればいいが、強者はそういう役目を背負っているのだと思う。
3.言論や科学で「真実を構築する」という仕事について
自分は、以前の記事に書いたように、「ネットは貧者の核兵器」であると思う。
ネットの言論は核兵器ではあっても、環境が汚染されたり国が消滅したりするわけではない。
自分が思うに、弱者だろうが強者だろうが、意見はどんどん出していいと思う。
例え貧者であっても、自分から意見を発信している時点で、3割の方の強者に位置していると思う。
それに、科学も言論も同じであるが、考えることや発信すること自体のコストは、タダでなければいけない。何か自分の意見を発信するのに権威や手形が必要なのだとしたら、真実を追い求める言論が育つことはない。
間違った言論を発信した場合、その当人の名誉や給料のことは別問題だが、真実の構築する作業においては、「間違ったことを言ってはならない」なんてルールもない。
科学も言論も、間違いの可能性を本気で恐れたら、何一つ発言は出来なくなる。
「間違ったことを言ったら即座に訂正される」というルールが正しい。
4.強者の義務と、弱者の義務
- 自分が考えた意見を言う。
- その中から正しいものを判断する。
- 判断した結果を積み上げてまとめる。
- 次のことを考える。
1.においては、自分が思ったことは何の縛りもなく発信できるべきであるし、間違ったことならば2.で弾かれるからそれで問題はない。3.においては「分かってる嘘」を一つも含ませてはいけないし、4.にたどり着けないのなら、その真実はそこで終わりだ。
真実とは、そのようなルールで構築されている。
自分から意見を発信できる人間は、3割の選ばれし人間であり、1.を始める資格があるが、2.~4.のルールに従えない奴は害悪だから出ていくべきだ。
7割の方の人間に戻って、おとなしく平和にしているべきだ。
自分の意見が間違っているとわかったならば、2.で引き返さないといけない。
気付かないフリして3.や4.に進むニセ強者が、世間には多い。
言ってないことを言ったことにしてはならない。
1.から始まっていないサイレントマジョリティなんてものは、言論の世界において存在が許されない概念だ。
間違いだとわかっている意見を1.に流すのは、厳密には悪だと判定はできないが、2.で無駄な作業が増えるから害悪である。人類の進歩を妨げる悪性ガン細胞だ。
5.エリートの邪魔をする「ニセ強者」
「常に世の中を動かしてきたのは 一握りの天才だ!」と、パプティマス=シロッコが言っていた。
それに対して、「そのために大勢の人が死ぬなんて間違っている!」とカミーユ=ビダンが言っていた。
エリートは数が少ないからエリートという。
例え弱者が数の暴力であろうと、それ自体に正義はあるのかもしれない。
例えば、世界がみんな愚民ならば、愚民向けの政治が必要だろう。
しかし、その頑張っている3割のエリートの中に、ルールに従っていない偽物が混ざっている。
真実の構築のルールに従えないならば、別に死ねなんて言ってないから、7割の人間に戻って大人しくしていてほしい。
これが出来なければ、人間は感情で動く猿と変わらない。
人か獣か。今の社会はその瀬戸際である。
「社会は嘘などついていない。いいね?」
ブラック企業も、働かない政治家も、マスコミの不公平も、他人を踏みつける田舎者も、子供を踏みつけるサイコ教師も。
どれもこれも、唾棄すべき現代社会の病である。
しかし、どれも理屈だけなら、いくらかは通っている。
先日の記事で述べたように、中学生レベルの理ならば確かに通っている。
先日の記事で、「理屈がすべて」だとは書いたが、正論だけですべての理屈がクリアーできるとは言っていない。正論以外にも通さなければならない「理屈」は存在する。
今日はそのことを書いてみようと思う。
目次:
1.嘘を正論として通す方法
ブラック企業や働かない政治家といった社会の大人たちは、嘘つきである。そんなことは中学生でもわかってしまうことだ。
しかし、こいつらは嘘つきではあるが、その嘘を正論として通す方法が存在している。
やり方は簡単だ。ゴリ押してしまえばいい。
また先日の胸糞記事を引用して例を挙げる。
この状況において、確かに妻は嘘をついていたのだが、妻は次のようなことを言って逃れている。
「私が嘘をついていた部分はジョークだからノーカウントだ」と。
「確かに買ってもいい。その分だけ借金は出来るがな」と。
こんなクソ論法でも一応筋は通っているわけだ。
確かにこのケースの場合、夫はジョークを言うことを禁じているわけではない。コートを買うことは要求していても、その予算を家計から盗むなとは言っていない。
コートを買ってあげるというのはもともと嘘だったわけだが、それを嘘にしないことは簡単だ。ジョークだとか誤解だとか言ってしまえば、なんだってセーフになるだろう。
聞いている側の理解力が高ければ高いほど、嘘でも正論として筋が通せてしまう。
2.唾棄すべき、「動かぬ正義」
記事の冒頭に書いた、唾棄すべき社会の病たちも、こういった手段を使って、嘘を正論として通している。例をいくつかまとめてみた。
「だってその方が儲かるし経営者は楽しいしお前らだって働くじゃん」
「ルール違反であっても労基に見つかって処分されるまでは続けるもんね」
仕事をしない政治家:
「選挙に勝ったのは俺だし勝たせたのはお前らだもん。任期があるうちは好き放題やるよ」
「選挙というシステムは悪いかもしれないけど、俺自身は何一つ悪くないもん」
不公平なマスコミ:
「テレビを買って視聴してくれてるのはお前らだろう。放映権だって持っている」
他人を踏みつける田舎者:
「なぜか地元警官と仲がいいから放火しても事件にならないなー(棒)」
「都会から来た医者が自分の病気よりも憎らしいから苛め抜いて自殺させてやるわ!」
子供を踏みつけるサイコ教師:
「生徒が数人鬱になったり人生狂ったりしたところで、私は痛くないもん」
「俺は社会経験もないし大学出ただけだから正しい勉強を教えるのは無理でしたー」
これでチェックメイトである。
お分かりいただけただろうか。すべては筋が通っている。
その正論が成り立っているからこそ、この社会から叩き出せないわけであって。
繰り返す。どんなに悪いことをしても、正論で勝つだけならばマジで簡単だ。
奴らは自分に危機が迫ると、自然にこういう手段を選択する。意固地になるまでもない。
3.「信頼」という、次の話
例えば、小学生がやるような、
「正解したらお金あげるよ」→「(金を持ち上げて)ハイ上げた」
というのも、筋自体は通っているわけだ。聞いている側が勘違いしていただけだという結論も、一応成り立つわけだ。
だが実際にこういった戦法が許されない理由は、一度これをやってしまうと、もう二度と信頼されなくなるからだ。
今後、この小学生が「お金をあげる」と言っても信頼されなくなるからだ。また逆に、同じ論法を使われることで、「お金をもらうこと」もできなくなるからだ。
だからこそ、「(金を持ち上げて)ハイ上げた」というのは、小学生レベルの戯言である。
理屈自体は通っていても、その理屈だけでは後のことが一切クリアできなくなる。
正論で勝つだけでは済まない話がそこにはある。
「理屈こそがすべてなんだから、信頼なんて精神論は知ったことではない」という反論も出てくるだろうが、それはほとんどの場合で成り立たない。
なぜなら、「自分が信頼によって許されている場面」をすでに多く抱えているからだ。
これも、先日の記事の、中二病で例えると分かりやすい。
ナイフを持って殺傷能力を手に入れた中学生だとしても、昨日までママに作ってもらった飯を食って育っていて、ママに買ってもらった洋服を今日まで着ているわけだ。
すでに借金まみれだから、ちょっと「正論」で黒字になったぐらいでは勝てていない。
信頼とはただの心情だけの問題ではない。人と人が共同して活動する以上は、正論と同じぐらい必要であり、すでに使っているものだ。
確かに、正義は正論によって作られているが、自分の手の届かないところは信頼で補わなければいけない。全部のことができていないならば、そういう責任は負わなくてはいけない。
論理と信頼は表裏一体であり、論理を通すならば信頼は失われる。信頼ばかりを通していると論理は破たんする。
今回のコートの話も、正論で勝つだけならば簡単な話であった。しかしそうやってゴリ押した場合は、その分だけ信頼が失われる。今回の件ならば、たったの75000円の案件で一発離婚すらあり得るほど信頼が失われた。ただ、稼ぎの違いと子供の存在でなんとか生き延びることができただけの話で。
4.正論をゴリ押す罪
「その相手には信頼されなくていい」と思うならば、嘘はついてもいい。
ブラック企業やマスコミたちは、嘘をついた方が得だという判断がついたうえで、なおかつ支払えるだけの信頼を十分に持っているから、嘘をゴリ押すという選択が取れている。
clacff.hatenablog.comこの記事で述べた、「会社の上司は何をやっても許される」という事例のように、そもそも有利な立場が固まっているなら何をどうやっても勝つことができる。
信頼というコストを支払ってくれるならば、嘘をつかれても別にかまわない。
嘘をつかれる側としても、相手が信頼できないとわかっていれば、嘘をつくことに事前の覚悟・対処ができる。
しかし、嘘をついておきながら信頼も要求するのは完全に筋が通らない。
ブラック企業をはじめとした社会のゴミ共が、本当に筋が通っていないのはそこのところだ。
ブラック企業もマスコミも会社の上司も、「自分が嘘をついた」なんてことは絶対に認めない。「仕方ない事情で嘘をつくけどごめんなさい」なんて伺いも立ててこない。
いつだって、嘘をついているのに「俺は嘘などついてない。そうだろう?」と脅しをかけてくる。
立場と権力に物を言わせて、理屈の上でも負けたことにされる。
先述したように、そもそも「正論で勝つだけならばマジで簡単」という前提があるが、その自分が勝てる世界から永久に出てこない。
ちゃんと自分の欲望を正直に話しているという点で、「ムカついたから殺す!」と暴れる通り魔のほうが、まだ誠実である。
現代の社会における正義は、エラーが起きていてコンパイルが出来ていないプログラムのようなものだ。
「バグ」ならば残ったままでも動くかもしれないが、「エラー」が起きているということは、それをすべて取り除くまでは動いていないことを意味する。
ブラック企業も、働かない政治家も、マスコミの不公平も、他人を踏みつける田舎者も、子供を踏みつけるサイコ教師も、会社の上司も。
自分が嘘をついているくせに、「嘘をついていない」という大義名分を要求する。支払うべき信頼を踏み倒している。
こんな嘘をつくゴミが一人でも息をしている以上は、社会というプログラムは正義に向かって歩み始めることができない。
むしろ逆に、「俺が死ぬまで楽しく生きれれば正義などいらない」という思想で、現代の社会は動かされている。
「ハイ論破」という言葉が未熟で中二病である理由を語る
「正論だけでは生きていけないぞ」とか、「理屈だけではダメだ」とか、そういった言葉を、人生においては何度も言われることになる。
正論だけを信じたがるその症状は、中二病の一種だ。
みなさんは、この病をちゃんと克服できているだろうか。
「正論で何が悪いんだよ」と強がる中学生に、大人が「正論だけでは生きていけないからだぞ」と答えるだけならば、その大人の価値はそこまでである。はっきり言って中学生と同レベルだ。
今日は、「正論で何が悪いんだよ」と言われた時に、ちゃんと正論で倒す方法を書いてみる。
目次:
1.解答解説
まず結論から言えば、「正論」は100%の正義である。
そこには毒や罠など一切含まれていない。
当人が「人体が判断できる経験則を積み重ねることで真実を構築する」という進化の方式を採用しているならば、「理屈こそが正義」である。
中学生がほざいている「正論で何が悪いんだよ」というのは、別にそれであっている。
「正論だけじゃダメだ」とかいうのは完全に戯言だ。正論だけじゃないとダメである。
科学も技術も宗教も、あらゆる人間の知性や経験則は、すべてこのように作られている。
にもかかわらず、正論だけでは勝てないのはなぜなのか。
答えは、その正論を上回った正論がすでに出てきてしまっているからだ。
- 「勝てるけど、勝った後にどうするのか」
- 「理論では両方勝っているけど、じゃあこれからどちらを採用するのか」
正論で勝った後には、すぐにこのような話がスタートするからだ。
もうすでに、一つの正論は終わって、次の正論が始まってしまっているからだ。
2.なぜ正論を「中二病」と呼ぶのか
一例を挙げよう。
togetter.com先日、このような胸糞記事が話題になった。詳しい話の内容は上記のリンクを見てほしい。
この事例でいえば、「悪いのはどっちだったのか」といえば、それは当然嘘をついている妻のほうなのだ。
それがここでいう「正論」であり、これぐらいのことは中学二年生でも簡単にわかる。
だが、実際には話はここで終わらない。まあこの記事に限れば、他人の夫婦喧嘩を見ているだけだから、後は無視しといても問題ないともいえるが、自分自身が当事者となってしまった場合は、一つの正論だけでは終わらない。
嘘をついたのは妻のほうだった。それは分かった。ならば
- 「じゃあその代償をどうやって払うのか」
- 「それでコートは結局どちらが買うのか。それとも買わないのか」
当然こういった話に発展する。この段階においては既に、妻が嘘をついていたという件については、「ごめんなさい」だけでもう済んだ話なんだ。
裁判と同じで、有罪判決を出したらそれで終わりではない。処分と罰則を決定しないと何も話が完成しないのだ。
先述したように、理屈は正義だ。正論こそがすべてだ。そこまではいい。
だが自分が勝っている地点で考えを止めてしまったら、そりゃ絶対に負けるわけはない。
自分のお小遣いでナイフを買って、「大統領でも朝青竜でも俺が刺せば死ぬしwww」と嘯く中学生。
それは事実だ。確かに大統領も朝青竜も、刺せば死ぬ。それであっている。
「そもそも刺せるわけねーだろ」という話も、一旦は無視できるだろう。「刺したら殺せる能力の有無」という話なら、確かにこの中学生の主張は正しい。
だが、そこまで考えたところで、すでにもっと大きい刃物が迫ってきているんだ。
- 「刺して殺したところでどうするの?」
- 「大統領の方だって君を刺せるけど、この場合どっちが勝ちなの?」
その場の能力でちょっと勝ったぐらいでいい気になって、自分が最強だと思い込む。そこで歩みを止めてしまって、これ以上の正論に気付こうとしない。
だから、中二病と言うんだ。
3.中学生レベルの大人たち
以上、「正論」が持つ正しさと、中学生の未熟さを解説した。
「より高い正論を求め続けること」。これが中二病の処方箋である。
あらゆる科学は「余地があるから」研究しているように、正論は求め続けることによってのみ、初めてその正義が保証される。
それに気付いて自分の中で理解した時こそ、中二病を卒業できる。
というか、本来は15歳ぐらいになればみんな気付いて卒業できる程度の試練だから、中二病と呼ばれている訳で。
しかし社会にはこれに挫折した人が非常に多い。
「正論だけでは生きていけないぞ」とか、「理屈だけではダメだ」という考えに屈服した人が、偉い大人の中にも大勢いる。
端的に言えば、中学生レベルのままで大人になっている。
「大統領でも朝青竜でも俺が刺せば死ぬしwww」と言っている中学生そのものであるが、さらに醜悪なことに、同時にそれでは勝てないことも、大人として覚えてしまっている。
ヤクザや警察のような、「自分のナイフで勝てない相手」は覚えていて、それからは目を背けて見ないフリをする。
一方、親や後輩などの身近な人にはそのナイフを見せびらかして、「俺を怒らせたらお前負けるよ?」と強がる。
これは害悪だ。
自分が勝てない世界はアンタッチャブルとして、自分の勝てる世界だけを保持し続ける。
せっかく正論を作り上げたのに、「自分が勝てないという真実を認めない」という嘘をついている。
その嘘を正論に含ませてしまった時点で、もうその正論はそこから成長しなくなる。
これが中二病を克服できなかった大人の姿である。
futoase.hatenablog.comこの記事で述べられている、「自分が詳しい技術だけでマウンティングをする先輩技術者」が、まさにその中二病を卒業できていない大人の一例だ。
今やっていることに技術的な問題点があることまでは正しいだろう。しかし、「じゃあ今のを止めてその方法を採用するべきか?そのコストは?」といった話には絶対に踏み込もうとはしない。
自分が勝っている地点で考えを止めてしまったら、そりゃ絶対に負けるわけはない。
奴らはそうやって、自身の正義を維持してきた。
こんなんだから理系はキモいって言われるんだよ。
学者や研究者が、「社会不適合者」を強いられる理由
「偉い学者や教授のプレゼンテーションがやる気ない理由」について考察された記事があった。
pipipipipi-www.hatenablog.com 自分の見た目を気にしないで済む人生は、さぞ幸せだろうなぁ。自分もそう思う。
ただし自分が知る限りでは、おそらく多くの学者や教授は、そうなりたくてなったわけではない。
他人の目を意識する能力を鍛えることができなかったという事情があると考えている。
そして、学者や教授の持つ地位と名声が、「そんな惨状でも大丈夫」という環境を許しているのだと思う。
自分もちょっとはそういう世界を見知っているので、書いてみようと思う。
目次:
1.プレゼンテーションというレアスキル
結論から言えば、伝わりやすいようにハキハキ話すということ自体が、すでに割と特殊なスキルなんだと思う。
単に親と学校に育てられるだけの人生では身につかない能力だ。
思い返してみればわかると思うが、ちゃんとしたプレゼンの訓練をしたことがある子供なんてほとんどいないはずだ。
小中学校では、「みんなの前に立って話す」なんてただの罰ゲームにしかならない。
逆に高校生ぐらいになると、みんなの前に立って話せるなんて奴は、イケメン勝ち組リア充である。
小中学校と高校では、スクールカーストの評価項目が変わってしまうからだ。
大学になると、授業やゼミなどでプレゼンの練習をすることもあるだろう。また、就職して会社に入ってしまえば、プレゼンの訓練を特別に時間を取ってすることもあるだろう。
しかし、20過ぎた人間がそこから成長できる可能性は必ずしも高くない。ハキハキ話すというスキルはもはや言語中枢の問題であり、人体に根深すぎる。身だしなみのセンスだって同様だ。
もはやそれは個人の気質の問題であり、ちょっと小手先で訓練するぐらいでは矯正できない。
ちゃんと人前に立ってプレゼンができる人というのは、それだけで割と優秀なコミュ力を持っているといえる。プレゼン能力の多寡はあるのだろうが、少なくとも自分は大丈夫という自信を持っているなら、それはすでに立派なスキルであると思う。
だから、訓練をしていない人のコミュ力を叩くのは、ちょっとかわいそうである。
2.情熱とアジテーションの線引き
「自分の学問に情熱を注ぎすぎているから」という理由であるケースも、人によってはあるとは思う。
しかしそれは、「好きこそものの上手になれ」という幻想の一部だ。
clacff.hatenablog.comこの記事で言及したような、「先天的な手塚治虫タイプ」だと、そういう結果になりやすい。
こういうタイプの人間は、そもそも偉くなってはいけないタイプだと自分は思っている。
別に地位や名声なんかなくたって、学問の価値は変わらないと思っている。
厳密に言えば、本来科学の構築に必要とされるものは、「論理的な正しさ」だけであるはずである。
正しいことさえ言っていればつながっていくのが科学の世界だ。
学問の世界にアジテーションなんて持ち込んではならない。
しかし、「わかりやすいプレゼン」というものを追及してしまうと、割と早い段階でこの問題にぶつかってしまう。
3.「分かりにくさ」を逆手に取る戦術
個人的には、熱狂させるようなアジは元々の真実を歪めてしまうから危険であるが、簡単にしてわかりやすく伝える、というのは学問には絶対に必要だと考えている。
一人でシコシコ論文を書いているだけならば、正しささえ確保できていれば十分であるが、わざわざ時間を割いて他人に話すからには、ちゃんと伝わって理解できる話のほうが絶対に価値があると思っている。
聞いてもよくわからないプレゼンテーションとか、聞く気が起きない論文発表とか、そういうものを無理やり聞かせることは罪であると思っている。
しかし、学問の場においてはとても邪悪なことに、分かりにくさそのものがアジテーションの手段として使われるケースがある。
「ボサボサの髪で聞こえない声で延々しゃべる」というスタイルが、逆に演出として有効になってしまってしまう場合がある。
学問の発表というシステムにおいては、「わからせる必要性」がそもそも薄い場合が多い。
別に全然わからない下手くそな発表であっても、当人にとっては「~の学会でちゃんと発表した」という実績さえあればそれでいい。
実際に割と偉めな学会などに行ってみても、半分ぐらいの人が寝てたり内職してたりする。そんなものだ。正直、居眠り国会を笑えない状況かもしれない。
例え100人や200人の聴衆がいるのだとしても、もともと真面目に話を聞いているのは一握りであり、「話を正しく伝えないとやばい人」はさらにそのうちの数名だけであったりする。しかもその数名が、正しいプレゼンを評価できる人だとも限らない。
むしろ、分かりにくくしたほうが有利な部分もある。なんか難解になってすごそうに見えるし、素人の簡単な質問はシャットアウトできる。
「僕はちゃんと言ったのに理解できなかったの~?ア~ン?」という戦術で有利に立つこともできる。
そして、わかりやすく話してしまうと、「こいつ異端だな」とか「アジ容認派だな」とか、そういうレッテルを張られてむしろ不利になってしまう。
邪悪なことに、学問とはそういった世界である。
4.アジテーションの常用化
以上、学者や研究者のプレゼンがクソである原因を述べたが、その世界が維持される要因としては、もっと根本的な理由があるのだろう。
すなわち、冒頭の記事でも触れられていたように、裕福な立場にいる人達だから、特に本気出さなくてものんびりダラダラ発表ができる立場にいるのだろう。
研究者が大学で講義をやっても詰まらなくなるのはシステム的な問題があるが、「そもそもなんで研究者が教育者を兼任しないといけないのか」という議論にもつながっている。
ちゃんと教えたいのなら専任の講師というか通訳を用意すればいいのだが、そうしてしまうと、研究者が直々に教えているという権威と信頼性()がなくなってしまう。
つまり現代の学問の世界においては、もともと正しく教えることなんてものが目的とされていないともいえる。必ずしも全員に伝わる必要などなく、一握りの者にしか伝わらなくても、むしろそれが選別の意味になる。
髪がぼさぼさでやる気のない発音というものは、選択的にそういうスタイルの者のみが長年生き残ってきた結果でもある。
「分かりやすさ」というのはリソースを割かなくては実現できない特殊なスキルであり、それに気を払わないものが有利になる世界である。
個人的には、リソースを割いてでも分かりやすさは追及しないといけないと思っているが。
【蹴鞠おじさん】知識量で人を裁くことの問題点
先日、「蹴鞠おじさん」の正体についての記事を書いた。
蹴鞠おじさんはメディアの分野に限らず、どの分野にでも現れる。あなたの職場にだって現れる。
この蹴鞠おじさんによって、あなたの仕事や人生が邪魔されるのは、なまじ権力を持っているだけに、非常に危険だ。
今日は、あなたの職場に現れた蹴鞠おじさんとの付き合い方と、倒すための突破口について、書いてみる。
目次:
1.「おじさん身内スポーツ:蹴鞠」の理解
「蹴鞠おじさん」は、一撃でイメージが伝わるとてもわかりやすい例えであるが、先日ヨッピー氏の記事では、「古くて、伝統があって普通の人が理解してないもの」という説明がなされていた。
以下、自分が「蹴鞠」が持つ言葉のイメージをあらためて補足してみようと思う。
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「蹴鞠」とは、歴史の教科書に出てくる平安時代の貴族がやっていた、あの遊びだ。
詳しくはWikiでも見てもらえばわかるが、別に競技の内容自体は割とどうでもいい。
貴族が、自分たちの考えた面白い遊びに夢中になっている。それがただの余暇として流行っているだけならば微笑ましいことだが、それに夢中になりすぎて本来の貴族の仕事が全然進んでいないことが問題だった。
飢饉が起きようと戦争が起きようと、自分たちは仕事をしないで蹴鞠に夢中になっている。
そして、貴族は金持ちで地位もあるので、そんな状態でも自分たちだけは安全なところで蹴鞠を楽しめるだけの余裕を持ってしまっていた。
同じ貴族の遊びでも、将棋や鷹狩とかだったら、まだ戦争のトレーニングになるだけ役に立つだろう。しかし、蹴鞠は特に役に立つわけでもなく、ただ楽しいだけだ。
人と人をつなげるための道具としては蹴鞠にも価値があるのかもしれないが、残念ながら蹴鞠は身内の貴族だけで流行っているスポーツだった。*1
そしてあまりに全員の貴族が蹴鞠をやっているため、「蹴鞠をやってない奴は貴族失格」などという考えが生まれてしまった。またそれと同時に、「蹴鞠が上手いやつは政治も上手い」という間違った理解も生まれてしまった。
そんなのはただの勘違いなのに、貴族自身の手でそれが正当化されてしまった。
蹴鞠ができないと本当に仲間外れにされるし、蹴鞠が上手かったから偉い人の目に留まって超出世したこともある。
そうして貴族たちは、真面目に仕事をするよりも、真面目に蹴鞠をするようになった。実際にそうやったほうが出世できる期待値が大きい、という既成事実ができてしまった。
貴族が蹴鞠にうつつを抜かしている間に、民は飢えて国は戦争で燃えているが、それでも貴族は自分たちが与えてもらった庭で、蹴鞠の練習を続ける。
~
以上、蹴鞠というものに対する理解を述べた。史実とは多少相違する部分もあるが、蹴鞠にはこのようなイメージがあるからこそ、「蹴鞠おじさん」という言葉が生まれた。
そして、こんなバカな歴史が、今繰り返されている。
仕事をしない平安貴族のように、現代においては知識人や技術者が、正しい仕事をしなくなっている。
2.蹴鞠おじさんの弱点と罪
蹴鞠おじさんには、決定的な弱点がある。先ほど述べたような平安貴族の例で話をしてみよう。
蹴鞠おじさんは、貴族である。
貴族であるからには、武芸一般に通じていて、国の秩序を維持する役割がある。そういう能力を持った人間だからこそ、平民はそいつに国の政治を任せたはずだ。
だから平民として、「隣の山に現れた山賊を退治してくれませんか」と頼んでみよう。
果たして、蹴鞠ばかりやっていた貴族のおじさんに、その力はあるのだろうか。
蹴鞠おじさんができるのは蹴鞠だけだ。それだけに人生を費やしている。
おじさん「ワシは蹴鞠が上手いぞ」
へいみん「蹴鞠なんて上手くて何になるんですか?」
おじさん「バカモン!蹴鞠は貴族のたしなみなのじゃ。政治が分からない平民はこれだから。」
自国の平民だったら、そうやって言いくるめることができる。
しかし、相手が武装した山賊の集団だったらどうなるだろうか。
おじさんはこう言うわけだ。
おじさん「ワシ、蹴鞠が上手いんだぞ!ほら、上手いだろう?」
さんぞく「…」
こうなってしまうことが、おじさん本人もよくわかっている。
だから、危ないところからはガン逃げする。
威張るのは、あくまでも安全な自国の平民に対してだけだ。山賊退治をやる場合は、自分は出向かず専門の軍隊だけに任せる。あるいは、山賊に金を握らせて去ってもらう。
自分に山賊を倒すだけの武力がないということが本人にもよくわかっているから、金か人脈に頼る。そのために金や人脈をため込むように、日々努力している。
先日の記事での例でいえば、マクルーハンは「蹴鞠」であり、自分がそれをよく読んでいいて得意だから、武器として使っている。
この昔話からもわかるように、こういった「蹴鞠おじさん」の弱点は、武力である。
メディアの偉い人であっても、政治・経済・地理・軍事・国際社会・科学・芸能の全部に本当に威張れるほど詳しいのか?と詰められてしまうと、途端に弱気になる。
おじさんは追いつめられると、「僕ちんメディアの貴族だからメディアの話じゃないと嫌ダヨー」というだろう。じゃあ同じメディアの話であっても、例えばアメリカやイスラムのメディアの話は?それぐらいなら日本でも聞けるから出来るのかもしれないが、じゃあ例えばロシアのメディアの話は?と、つついていけば、どこかで必ず隙はできる。
それは当然で仕方のないことであるのだが、それにもかかわらず、自分の得意な武器だけを使って若者を叩いたのが、罪であり問題である。
3.知識量で人を裁くことの問題点
例えば、東京大学に通っている4年生の学生に、もう一度センター試験と東大の二次試験を受けてもらったら、いったい何割の人間が合格できるだろうか。塾講師とか家庭教師とかそういった特別に受験勉強をやっていた者を除けば、おそらく2割にも満たないだろう。
人間の脳が保持できる知識の量など、たかが知れている。だからこそ人は文字を発明して、それを体系化して記録したものを科学と呼んだ。当人一人が暗記して知っているだけの内容なんてものに科学としての価値はない。
例えば、歴史という科目は、本来は暗記科目などではない。過去の出来事がなぜ起きたのか、これから何が起きるのかということを理解して予測することが目的である。昔誰かが言っていたように、7世紀のインドの王様の名前など、本を見ればわかるので覚える意味などない。
物理や数学といった理系科目も同様だ。ただ既存の問題を計算するだけなら、電卓でもコンピューターでも使えば済むだけの話である。本当に問われている能力は、「新しい問題をどのように発見するか」や、「発見した問題をどのような手段で理解するか」ということである。
本の内容を暗記して取り込むだけならばただの作業であり、それをやった者が偉いなどということは、受験本番のときを除けば、まったくない。
だから、知識量だけで人をテストすることは、本来は間違っている。知識量だけでテストをするならば、よほど短いスパンで再テストをしなければ正当性は確保できない。
本来ならば、実際の身体能力や暗記に頼らない思考問題などでテストをしないといけない。そのため、実務経験が科目として必要になるテストも多い。
「暗記なんて本当は偉くない」。
この程度のことは受験勉強のときに気付いてなきゃいけないことであるはずだが、なまじ苦労せずにテストで高得点を取ってしまうと、これに気付くことがなく、そのまま知識量を振りかざす蹴鞠おじさんが出来上がってしまうのだろう。
4.「試験に合格した」≒「忘れてもいい」
受験勉強などに代表されるように、現在の社会においては、人が人を裁くときには、知識量という方法を採用している。正確ではなくても楽にたくさんの人間を判定できるという利点はあるし、それ以外の有用な方法も現状見つかっていないからだ。
だが知識量だけの判定方法を採用することによって、その弊害はそのまま残り続けている。
言ってみれば、試験に合格して資格や地位を得るということは「テストの内容を忘れてしまってもいい」という権利を許すことである。定期的に再テストがある場合でも、「(その時までは)忘れてもいい」という話でしかない。
蹴鞠おじさんは、そのようにして試験をクリアして、貴族になった。貴族になって、「叩かれない身分」を手に入れた。
もし山賊が襲ってきても、自分を守ってくれる軍隊を手に入れたから、自分自身は武力を鍛えておかなくてもよくなった。
これが、蹴鞠おじさんの貴族としての正体である。
だから、蹴鞠おじさんを倒すためには、物理で殴ればそれでいいのだが、それは「貴族」というシステムそのものを殴ることになる。
そんな「貴族」世界は潰れてしまえばいいと自分は考えるが、もともとこの「貴族」というシステムだって、人口が増えすぎたこの社会では、便利で仕方のないことだから採用されたシステムだ。
現状の「貴族」のシステムを破壊してしまうと、国を丸ごと破壊して全部再構築するような、多大なコストと時間を必要とする。
このような世界で、「蹴鞠おじさん」という貴族の横暴から身を守るためには、自分も頑張って試験をクリアして、おじさんと同じ「貴族」になるしかない、と思う。
おじさんよりもさらに偉い貴族になって、遠い将来におじさんを処刑することが、「貴族」という古いシステムを正す一番の近道なのだと思う。
*1:史実では一般庶民にも広まっていたらしいが