【不倶戴天】無知と差別とトリックスター
本日、この記事が炎上していました。
インターネットの世界には、どの分野でも「詳しいオタク」がたくさんいる。
なぜならば、インターネットの言論には、(現実世界の)立場や権力が弱くても自由に参加ができるからだ。
むしろ必要になるものといえばパソコンのことを理解する技術力であり、インターネットの文化はオタクが最初に作り出したものだからだ。
そんなことを、以前このブログに書いた。
圧倒的な知識と経験を持ったおじさんが、無知でうかつな者を叩き壊す風景。
おじさんは、古来より「神」「解析班」「モヒカン」「~警察」など、実に様々な呼び方がされてきた。
なぜなら、ネット文化のあらゆる場所・時代において、おじさんはその影響力を行使していたからだ。
今日は、この記事特有の巧妙さと、おじさんたちの怒りの感情を解説してみる。
目次:
1. 今回の炎上記事の特徴
まず、今回炎上している「詳報:トヨタが頼った謎のAI半導体メーカー」はなかなか面白い事例だと思う。
今回の炎上は、「叩く難易度が非常に低い」というのが特徴だと思う。
Twitterやあらゆるコメント欄で言われているように、自分でパソコンを所有して、ゲームや動画などを見る者ならば簡単にたどり着ける知識であるからだ。
こんな簡単な条件だから、多くの者がクリアできる。
また、PCでゲームをやったり動画を扱ったりする者、すなわち現代の若者の割と大多数にとっては、グラボの性能というのは愛車の排気量と同じようなものだから。
「格」がつくものであり、誇りを持つものだから。
こんな簡単で重大なことだから、誰でも叩きたくなる。
この手の「叩く難易度が非常に低い」案件で、過去の事例はこんなところが思いつく。
いくつかを引用する。
「神いわゆるゴッド」が当時笑われたのも根底が同じような気がする。
マスコミや知識人のような、「社会的地位が高そうな人間」がしたり顔で隙があることを発言して、なおかつそれがお茶の間で称賛される(ような状況が存在する)のが、我慢ならないのだと思う。
2.記者の類まれなる技術力
一応この記事を書いた記者は、現在炎上している通り、「本当に知らない可能性」は無いでもない。
そして、こんなことも知らないような奴に経済誌の記事を書いて欲しくない、という理論は成り立つ。
www.huffingtonpost.jpNVIDIAによると、この記事の記者はNVIDIAのことについてよく知ってはいたらしい。すなわち、この記事はタイトルの過激さで客を寄せようと目論んだ、釣り記事である。
その前提で中身を読んでみると、この記事がいかに高度なのかが思い知らされる。
この記者は、確かに無知ではない。
そうじゃなければこんなにキモい文章は絶対に書けない。
特に5ページ目がアツい。「クルマを司るAIは“3人”いる」なんて、まるで高校一年生男子が挑む朗読大会のような、文系が考えるかっこいい理系を見事に体現している。
タイトルで釣るだけでは決して終わらせず、中身でも楽しませてくれる非常に高品質な記事である。
記者の経歴を見ても、「本当に知らない可能性」なんてものはおそらく皆無である。
しかし、この記者がそれを釈明せずに、経歴だけをチラつかせて牽制を続けるならば、こんなことも知らないような奴は経済誌の記事を書くな!という罵倒は成り立つ。
注目を集めたところで、憎しみも集まるのでは意味がないと思うが、これが炎上芸というやつなのだろう。以前の記事で書いたように、信じる馬鹿が多ければ多いほどこういう戦法は有効になってしまうのだろう。
3.愛とか心とか、今まで何度も聞いているはず。
無知は差別を生む。
インターネットの言論で戦っている者の多くは、リアルの世界での立場や権力を持たない者である。こういう人種は、差別や迫害に弱い。
だから、今回のような無知を装って炎上させようという記事に、怒っている。
数にものを言わせて仕返ししてやる、指をさして笑ってやる、という悪意が渦巻いている。
そうやって戦いの歴史は紡がれていくが、その背景には「こういうオタクを馬鹿にする記事こそが大衆にウケる」という人口比率があったから、こんなおぞましい記事が生み出されたのだろう。
多分、オタクはもっとその知識を広めないといけないのだと思う。
無知は差別を生むのだから、その技術を教えて仲間にしてしまえば、差別は減るのだと思う。
・パソコンに詳しいとこんな面白いゲームがプレイできるよ!
・ネット文化に詳しいとこんな面白い会話ができるよ!
普段馬鹿にしている一般人と、こういう交流をやってこなかったツケが来ているのではないだろうか。
確かにオタクの文化はだいぶ大きな市場になってきたが、まだそれだけでは精神の融和が追い付いていないから、今回のような「馬鹿の数に期待した戦法」が通ってしまったんじゃないだろうか。
オタクじみた精神がいつまでたっても抜けていない。
笑うより先にやらなければいけないことがある。
社会には、愛がなければ勝てない。
そう考える。
チャーハンで分かる、専門分野のマウンティング合戦のこと
なぜ人はマウンティングをしたがるのだろうか。
元をたどれば自然界でサルとかゴリラとかがやっている行為であり、人間の社会性にもその本能が残っているから。
古い日記を見つけたが、ここの解説が詳しかった。
しかし、サルやゴリラとは違って、人間は地位や持ち物ではマウンティングはあまりしていないように見える。そのあたりは、獣から少しは進化をしているのだろう。
人間は主に、自らの能力の多寡を使ってマウンティングをする。
議論と理性という武器を取らなくては、人類社会には未来は無いと思うので、今日はその心理について書く。
目次:
1. 心の生存競争
なぜ人はマウンティングをするのに能力の多寡を使うのだろうか。
結論だけを先に言うと、「誇りで殴るのは最高に楽しいから」だ。
相手が持っている一番大切なものを叩き壊す最高の攻撃であるからだ。
自らの誇りに「相手をぶっ殺した!偉い!」という勲章をつけることができるからだ。
人間が一つのデスクトップパソコンだと例えた場合。
心とは、ソフトやハードなどではなく、それらを動かすための電力を意味する。
電力がなければ人体は一歩も動くことはできないし、適切なものを絶えず供給し続けなければならない。
そんな大切な心に、ダイレクトダメージを与えることができる。そして自分の心はその成果を独り占めできる。誇りを使った殴り合いは、こんなハイリターンであるからだ。
2. 武器は戦いを引き寄せる
そういうわけで、何としてでもこの誇りを使った殴り合いに参加しなくてはならないわけだが、じゃあ自分がどんな誇りを持っているのか?というのを考えるときに、わかりやすい例がある。
以前、チャーハンの作り方に関する記事を書いた。
チャーハンというのは、低コストで効率よくカロリーを摂取できる利便性が高い手段であるため、特に一人暮らしで自炊をする者には、よく使用される技術である。
言ってしまえば、チャーハンを作る能力というのは、社会不適合者の糞ニートであっても手に入れることができる誇りである。
だからこそ、インターネットの社会においては、この誇りを使った殴り合いが頻繁に起こる。
テロリストがAKばっかり使うという事例によく似ている。
すなわち、戦いをしたくてしかたない者たちが、手に入れやすくて使いやすい環境が揃ってしまっている。
糞ニートはチャーハンの作り方ぐらいしかマウンティングできるような誇りは持っていないが、仕事や学校で別途能力を身につけた者たちは違う。
AKなんかよりもっと上等な武器を使って戦争をしている。
最たるものが、「プログラミングの能力」であると思う。
インターネットの世界では、情報工学の分野で、チャーハンの作り方と同じぐらい醜い争いがより大規模にハイレベルに行われている。
例えばこのようなもの。
以前自分が記事で書いたような、「正しさハラスメント」とか「なんでもいいからナンバーワンになれ」とか、そういう争いに夢中になっている人種だ。こればっかりは文系より理系のほうがクソだと思う。
3. 争いの先を見据える義務
チャーハンの作り方にせよプログラミング技術にせよ、不幸な人生では、それしかマウンティング合戦に使えるような誇りがなかったのだろう。
マウンティングをしないと落ち着けないというのは、野蛮で幼稚な精神だと断ずることもまたできない。
すでにここは、見栄を張らないと本当に殺されてしまうぐらいの修羅の国だから。
だが、能力でマウンティングをしようといっても、ほとんどの場合で能力とは定量化ができない不安定なものである。
人間は、こんな不安定なものを使って勝った負けたを繰り返している。
体の大きさとか子分の頭数とか、そういう目に見えるものでマウンティングをしているだけ、サルやゴリラのほうがまだマシなのかもしれない。
能力は、たとえあったとしても定量化ができない。
その能力を使って価値を持ってこられるかどうかは、いつも別問題なんだ。
例え最高のチャーハンが作れる能力があったとしても、それだけでは単に自慢ができるだけである。
それで自分や他人の腹をどれだけ効率的に満たすことができるのか?
どんな店を開いてどれだけの利益を上げることができるのか?
能力が持った者が本当に考えなければならないのはこういうことだ。
能力を持った者なら、普段もっと高度な技術的な会話をしているのだから、答えなんてすぐに出るはずだ。
マウンティングなんかよりもさっさと次のことを考えなければならない。
クロコダインが言っていたこのセリフはこういう意味だと思う。
おじさんたちが口を酸っぱくして押し付けるルール
問題です。
「例えおもちゃであっても、銃を手に取るときは、銃口を人に向けてはいけない」。
このルール、イエスかノーか。
・答えはイエス!
・銃を扱う者の常識であり義務である。
・サバゲーでも軍隊でも、どこに行っても必ず最初にこのように訓練される。
・常に~されるかもしれないという思考でないと必ず事故が起こる
このように理解している者が大多数だと思う。
何年か前にこんなニュースがあったけど、ここでもそうだった。
でも、この「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールは、冷静に考えてみればだいぶ怪しいところがある。
というより、歴史を辿ってみても、これは銃を扱う者の共通の憲法などではない。
あるのは、その昔ジェフ・クーパーという偉い人が「軍隊や警察にこう教えたことがある」という起源だけである。それを各団体が必要に応じてアレンジして採用しているだけのものだ。
にも関らず、「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールは絶対のマナーとして神格化され、素人を叩いていい武器だとして行使されている。
この、銃口安全に関するルールは一例だが、このようにモラルや安全を盾に業界のルールを口酸っぱく押し付けられる場面が多くの業界に存在する。
ルールというものは、人間が作って運用するものだから、放っておくと感情に従って暴走する。
今日はその危険性について書いてみる。
目次:
1. 嘘を暴く
まず、「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールのおかしいところについてだが、「このルールのどこがおかしいんだ?当然だろう!」とベテランのおじさんたちは言うのだろう。
このルールに従うと、砂利ガキがモデルガンでガンマンごっこをやる行為はアウトになる。
たしかにそうだろう。例えおもちゃであっても、銃で遊んではいけないのだから。
この時点で既にだいぶ無理をしている気がするが、そう考えることもできるんだろう。
それならば、じゃあ例えば「映画の撮影」は、いったいどうやって説明をつけているのだろうか。
シュワちゃんが銀幕で動くたびに「銃口ガー」って発狂するの?
それとも、映画はフィクションだとわかっているからセーフなの?
その論理だったら普段悪ふざけをして銃口を向けるのもセーフにならない?
そもそも、どこまでをおもちゃの銃だとみなしているのか?
1. 幽遊白書の霊丸の構えのように、飛び道具を撃つという意思は確かに表しているもの。
2. ロボライダーのボルティックシューターのように、多分本物の銃ではないと気付けるが、実銃だと言い張ることも可能そうなもの。
3. 実物に忠実に作られた発火式モデルガンのように、そのまま実銃だと脅すことができてしまうもの。
これを全部まとめてアウトにするのだとしたら、かなり困る。
「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールは、ちょっと考えれば大げさなルールであることが簡単にわかる。
そして、もちろんというかなんというか、ジェフ・クーパーも全米ライフル協会も実は最初からこんなことは言っていない。
「破壊したいもの以外には銃口を向けるな」とは言っているが、これはエネルギーを持った弾丸がでる銃口のことを指して言っている。おもちゃの銃口もダメだとは言っていない。
「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールは、どこかの団体がジェフ・クーパーの訓練手法をアレンジして、どこかのタイミングで勝手に追加したルールである。
そして、現在はこのルールを採用している団体ばかりというわけでもない。
2.ルールを作って運用する際に、必要な品性
・銃を扱う者の常識であり義務である。
・サバゲーでも軍隊でも、どこに行っても必ず最初にこのように訓練される。
・常に~されるかもしれないという思考でないと必ず事故が起こる
おじさんたちは、いつも口を酸っぱくしてこう言っているが、これらは全部デタラメである。
「例えおもちゃであっても、銃を手に取るときは、銃口を人に向けてはいけない」というルールを採用しているのは一部の団体のみである。
常識という言葉は、同意と議論の下でしか運用してはいけないはずだ。
このルールを採用している集団の元では、確かに必ずこのような訓練がなされるのだろう。
でも、そこの卒業生が全人類かといえば当然そうではないわけで。
自分たちの訓練がすべての正義だと決めつける思考である。
「常に~されるかもしれないという思考でないと必ず事故が起こる」という方針自体は正しいと思うが、ここが一番危ない。
矛盾は矛盾を呼ぶ。一つの矛盾を通した時点で、考えれば考えるほど全ての論理が崩壊する。
「例えおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない」というルールを押し通した場合、このようにちょっと考えてしまっただけで、「じゃあ、あれもこれも全部ダメなんじゃね?」という思考に行きついてしまう。
安全工学をちょっとでも勉強すればわかるはずなのだが、安全のためのルールを作って運用する際には、よほど慎重な管理をする能力が必要である。
自分が知っているルールだけを神格化して、素人を叩いてドヤ顔をするおじさんたちに、そんな能力があるのかどうか。
3.反則技を使ったことを忘れてしまう傲慢さ
まあ、「おもちゃの銃を人に向けていいのかどうか」なんてルール自体は別にどうだっていい。
銃器を扱う際には、それ専用のルールや訓練が別途あるのだろう。
いろいろ屁理屈をこねたけど、本当はただの精神教義だってことぐらいは知っている。
「おもちゃだから人に向けていいんだもーん」と粋がったクソ餓鬼がいたから、こういうルールを作ったのだろう。
多少矛盾したルールでも厳しく押し付けないと事故は撲滅できない、という経験則は実際に存在しているだろう。
問題はそのあとだ。
矛盾したルールのパワーでその場を解決した後、しばらくすれば、そのルールが本当は矛盾しているのだということを忘れてしまう。
そのルールが実績のある正義だと勘違いしてしまい、その後も吟味せずに運用してしまう。
おじさん達は、モラルを盾にルールを暴走させる。
そのうちに、何が正しいのか自分でも説明ができなくなる。
そして、そこを指摘されたら「そんなの常識だろう!」とキレて追い返す。
・FAXをした後はFAX届いていますかという電話確認をすること
・車のエンジンをかける前に、降車して一周確認すること
・goto文は事情があっても使用してはならないこと
・フォークリフトは10km以上の速度を出さないこと
・はんだごてはタイマーがついたコンセント以外で使わないこと
これらは全部、「常識」なのだろう。
しかし、もともと矛盾しているルールだから、当のおじさんたちはこれを好きなタイミングで反故にできる。
注意する者がいなくなったとき、自分が面倒になれば簡単に無かったことにする。
「たとえおもちゃであっても銃口を人に向けてはいけない!」と宣っていながら、コマンドーが再放送されると喜んで鑑賞している。
こうやってやたら強い言葉でルールを押し付ける大人が、どの業界にもたくさんいる。
学校や、家庭や、職場で、そういう大人を何度も見てきている。
・そのルールは意味が明確ではなく、冷静に考えれば多分間違っている。
・でもやたら口を酸っぱくして言っている。
・調べてみると、そのルールは過去の偉い人の言葉を繰り返しているだけだったりする。
・そして、それが常識だとか躾だとかいう。
こういう大人のどこを尊敬すればいいのだろうか。
厳しいルールを強制する手法も無いではないが、社会や人間関係においては、尊敬や信頼なしに成り立つことなんて多分ほとんど無い。
常識・誇り・当然といったようなワードには、有効な真実は何一つ入っていない。
ただのドヤ顔バズワードであり、議論と説明以外に真実などは存在しない。
普段人徳が得られないからって、こういう形で人を踏もうとする精神が危険である。
表現の自由 VS 後出しジャンケン
先日から話題になっていた記事だが、ついに集英社が件の漫画を取り下げたらしい。
別に、もっとエロい漫画は他にいくらでも掲載されているし、出版もされている。
少年ジャンプを作っているとこなんだから、これぐらいネタに走っても何ら不思議じゃない。
そう思っていたが、結局集英社は謝罪をして、漫画を取り下げた。
論理的に成り立っていなくても、「イメージ」が気に食わなければ潰せてしまう。
そういう前例がまた一つできてしまった。
そして、イメージというものは当人以外には説明開示できないものだから、イメージを訴えるような戦いは必ず後出しジャンケンになる。
有史以来、人類が論理で生きてきた時代なんて多分まだ一度も来ていない。
生きるためには嫌でもこの後出しジャンケン合戦に勝たなくてはならない。
「飛び込みは見てからワンボタン昇竜で迎撃できますwww」
「ガードできても有利フレームはありませんwww」
今日は、こんな無情なゲームに勝つ方法を考えてみる。
目次:
1.絶対勝てない9:1ダイヤ
格闘ゲームに例えるとよくわからない人も多いと思うので、漫画を一枚引用する。
ミソジニー認定しよう pic.twitter.com/XOggm0Y3Q2
— スルメロック (@surumelock) April 21, 2017
多少文字が多いけど、読んでみると酷くて面白い。
押してもダメ、引いてもダメ、黙っていてもダメ。つまりはこういう戦いを強いられている。
出版する側にとっては完全に無理ゲーであり、相手は見てから好きなように対応を変えることができる。
別に、特定の個人がコロコロ意見を変えているわけではなく、たくさんの読者がいて、それぞれが色々な意見を持っているのだろう。こんなサイコ野郎は、そうそう居ないのだとは思う。
しかし、例えば認めなかった人が一人でもいて、その一人がゴリ押しで出版側を屈服させることができるのだとしたら話は別だ。
複数の人間に向けて公表した時点ですでに死亡だということになる。
もうどうやっても勝つことができない。
突き詰めて考えれば、出版業自体が消滅する以外に道はない。
インターネットでは個人が自由に意見を発することができる。
今回の例のように、こういう話は実際に起こってしまう。
ここまでくるともう、「最初は何も感じていなかったけど勝てそうだから叩く」という勢力まで出てくるだろう。
人のイメージというものは、当人の認識範囲すら超えて成長をする。
集英社だって、大衆のイメージに訴えかけることで商売をしているので、最初から全部無理ゲーだったという結論すら出てきてしまう。
この手の話題のときに、よく『エスパー魔美』から引用される画像がある。
意見を言うのは勝手であり、どんどん言えばいい。反論をすることも、無視することも、作品で応えることもできる。
しかし今や、機嫌を損ねてしまったら作品や作者が息の根を止められる時代になってしまった。
2.彼らを倒す方法
こういう後出しジャンケンに対する対処の一つとして、戦い自体をしない、あるいは相手が疲弊するまで待つという戦法がある。
clacff.hatenablog.com以前の記事でも述べた通り、これは一対一ならばかなり有効な戦術だ。
延々待てるだけの体力があることが前提になるが。
しかし今回のケースのように、相手が大多数である場合では無理な戦法である。数で負けている以上体力の差では絶対に勝てない。
また、以前からこのブログで言っている「人間は数が集まると論理を否定するようになる」という原理により、正義はどんどん遠ざかる。
彼らは、論理では動かない。感情で動く。
ではその感情は何によって作られるか?そこに奴らの弱点がある。
彼らは、自らの感情を構築する際に、ほとんどの場合で「他人の権威」を使用する。
自分自身の感覚だけで価値観を構成するような気概は育たない。
彼らが人体で採用しているOSは、クラウド的なものに例えられる。
マシンスペックが貧弱でも、高度なソフトウェアがインストールされていなくても、他人と回線さえ繋がっていれば、その演算結果だけを受け取ることができる。
自らは努力することなしに、高度な機能だけを実現できる。
自分で判断をする必要すらなくなる。他人と同じように生きていれば無難で間違いがない。
「他人と繋がってさえいれば」万事安心であり、それ以外に関心ごとはなくなる。
震災が起これば本能的に安否確認メールなんかを送っちゃう。
絆と共感だけで生きていける。 等々。
そういう思想が育ってきている。
通信回線と相手のサーバーが保証されるような豊かな時代ならば、大衆向けとしては割と理想的なシステムかもしれない。
「嘘やいたずらに弱い」という点も、実際のクラウドと同じであるが。
ちょっと話がそれたけど、そういう彼らを倒すためには、権威で殴ればいい。
このスイスの鉄道の件なんかかがわかりやすい。
しかし、権威で殴るといっても注意が必要だ。
天皇や大統領でもかみつく人はかみつくように、権威とは絶対的な量で表せるものではない。
彼ら自身が使用した、そいつにとっての権威を探して、そこを突くのだ。
3.こんな世界で生きるために
表現の自由を主張する側にとっても、忘れてはならない事実が一応ある。
これは明らかな真実であるが、今社会に出回っている文化は、20年前よりは明らかに刺激が強い。
「昔もエロかったぞ」という声はよく聞くが、「今より昔のほうがエロかったのに嘆かわしい」という声は全く聞かない。
少年ジャンプ一冊に出てくる女の子とパンツの数は、増えているか減っているかと言えば、明らかに増えている。
スマホを使えば簡単にエロ画像が収集できてしまう世の中である。
普通の日常生活においても、LINEや掲示板の複雑な情報戦を生き延びなくてはならない。
何百時間も遊べるようなゲームがタダで手に入る。見なきゃいけない動画が溢れている。
大人に対する信頼感が損なわれるニュースが嫌でも目に入る。
半数以上の人間が常時ビデオカメラを持ち歩いている。
もし今自分が、もう一度小学生や中学生をやれといわれたら、狂わずにいられる自信がない。
こんな世界ならば、自分自身や子供を守るために、気をつかいすぎるなんてことはないのかもしれない。
だが、「悪いものを潰すためなら、後出しジャンケンを使ってもいい」と考えてしまうのは間違っている。
正しくない方法で倒してもすぐに復活してしまうから。
潰したいなら、ちゃんとデータを出せばいい。
教育ケアの数や、性犯罪率や、少年ジャンプのパンツの統計など。
多分、今の社会なら明らかに数値で出せると思うし、その因果を推測して説明すればいい。
データがなかったり、納得できそうな因果が出てこないのだとしたら、今はもうそれが正義だということになる。
大体、今の社会だって本当にやばいものはすでにブレーキが掛けられている。だからこそ成り立っている。
ネットで他人の個人情報をバラせば訴えられるし、幼女にセクハラをしたらもれなく村八分の後刑務所行きだ。警察も出版社もそういう仕事をしている。
ダメなものはダメだというのには理由が必要だ。
「大衆のイメージ」なんてものは、証拠がないから理解ができない。
今の大衆が採用しているOSではこれができないのだろう。
証拠なんてどうでもいい!という文化がある以上、こういった事件は起こり続けるだろう。
「コンビニで廃棄されるおにぎり」をせっせとつくる仕事
先日、学校と学生に関する記事を書いたので、今度は社会人向けに仕事に関する記事を書いてみようと思う。
多くの人は会社で働いていると、自分のやっている仕事でずいぶん無駄なことをやっていると気づく。
自分の時間の半分ぐらいは、「本当は味方であるはずの人に対する理論武装」に費やしていることに気付く。
こんなことをやっているのは日本人だけかどうかは分からないが、とりあえず海外ではもっと建設的な思考をしている、みたいな記事は見つかった。
simplearchitect.hatenablog.com
無駄な仕事を無駄だと認識して省くことで、建設的な未来が作り出されるはずである。
自分が死なないために理論武装を続けるような、終わりのないディフェンスでもいいのだろうか。
多分良くはない。
今日は、それに至るまでの心理を書いてみる。
目次:
1.目には見えない余計な仕事
先の記事でも紹介されている通り、例えばこんな仕事があったとする。
1.会議に開いてみんなの意見を聞く
2.その上で一つの決定をして同意を得る
でも、実際にこの仕事を行うためには、もっと多くの作業が必要になる。
0-1. 全員の時間を消費する価値がある、という証拠を集める
0-2. 集めた証拠をパワーポイントで見やすいようにまとめる
0-3. パワーポイントに入りきらない分は手元に資料を用意する
0-4. 言葉が詰まらないように、暗記して訓練する
1. 会議に開いてみんなの意見を聞く
2. その上で一つの決定をして同意を得る
ここで追加される仕事は、本当は必要なものではないのだが、自分自身に身を守るために必要になってしまう仕事だ。
会議が終わった後はすぐに必要がなくなるようなものだが、それでも用意はしなくてはいけない。
まるで、コンビニで廃棄されるおにぎりのように。
それ自体は売り上げにつながらない無駄なものだが、「いつでも対応できる」というカッコをつけるために、わざわざ用意されて捨てられるものだ。
商売の戦略を考えると、コンビニのおにぎりを多く用意することは、結果的に利益は上げることにつながるのだろう。
だがそれは、相手が客であり、何を考えているかわからない存在であるから成り立つ話だ。
同じ社内の味方同士でおにぎりを無駄に作っても、それは虚構である。
2.各項目の解説
0-1. 全員の時間を消費する価値がある、という証拠を集める
これは、定例ではない臨時の案件ならば必須になる仕事だ。
なぜならば、ここをノーガードにしてしまうと、「会議を開くなら他人の時間を大事にするべき云々」でマウンティングを取ろうとする者が大抵一人は居るからだ。
必要だから会議を開くのは当然であるのだが、元々定量的な価値なんて測れないものに決まっている。だから、こういう後出しみたいなマウンティングでも成功率は割と高い。
逆に、毎月の定例会議など開催すること自体がすでに決まっている会議ならば、この仕事は何事もなかったかのように省略される。
0-2. 集めた証拠をパワーポイントで見やすいようにまとめる
会社によって求められるレベルは違うが、逆に言えば会社のレベル程度で上下しても構わないような内容である。
別に、情報として読めれば羅列してあるだけでも問題ないはずなのだが、プレゼンテーションの見やすさ(笑)とか演出(笑)とかに、命を賭けなくてはならない。
悪意を持った者にとっては、ここもマウンティングチャンスであるから。
0-3. パワーポイントに入りきらない分は手元に資料を用意する
この0-3.が、一番大事だ。「コンビニで廃棄されるおにぎり」の本分である。
用意してきた答弁資料の多さでマウンティングが始まるわけだが、その競争には上限が設定されない。「どこまで用意すべきか」は慣例や適当な感覚で決まるため、本当に警戒をしようとすると切りがなくなる。
そして面白いことに、多くの場合でそのおにぎりは買われたうえで結局食べずに捨てられる。
なぜならば、別にそのおにぎりは食べたいから用意させた訳ではなく、最初からマウンティングをするためだけに用意をさせているからだ。
0-4. 言葉が詰まらないように、暗記して訓練する
0-4.において、マウンティングの本質が一番よく見える。
高度に発達したマウンティング合戦においては、「資料を用意して答えられるようにしておく」だけでは遅いのである。
本当にカッコをつけるためには、即答をしないといけない。
別に、ググって調べるのに1分かかろうが5分かかろうが大して変わりはしないはずだが、マウンティング合戦ではその隙が命取りとなる。
即答ができれば専門家としての威圧感と信頼性(笑)があるからだ。
むしろ、即答できる速度が内容の正しさよりも優先されてしまうことがある。
1. 会議に開いてみんなの意見を聞く
2. その上で一つの決定をして同意を得る
これだけ終わったら、ようやく本来の仕事がスタートする。
たった一時間の会議のために、下手すれば前日よりも前からこんな作業をしなくてはならない。
これだけ手間をかける割には、会議で話が決定するのはたいていの場合でほんの一瞬である。
この一瞬のためだけに、下っ端の者は多くの手間暇をかけて、必要以上の理論武装をしないといけない。
3. 社会における事例
近年日本の国会において、答弁資料をAIで自動作成しておこうという試みが始まっているらしい。テレビで紹介されているのを見た。
国家公務員の答弁資料を作成する仕事は、まさしく「コンビニで廃棄されるおにぎりをせっせと作る仕事」である。AIで自動化をしてしまえば、公務員がサービス残業地獄から解放される、とのことだった。資料の用意だけならば高度な判断なども必要ないから。
しかし、やっぱりここでも精神論の批判が殺到している。
「すぐに答えられないとは政治家として恥ずかしくないのか!?」という意見を本気で述べている人がたくさんいる。
一応、政治家という職業では、少し話が違うのかもしれない。
政治の合理性や正当性以前の問題で、本気でパフォーマンスに走らないと命に係わる職業であるのかもしれない。
政治家がパフォーマンスをやらされていいのかという話を無視すれば、確かに質問されるたびにタブレットで検索をしているような姿は、かっこ悪いように見えるのだろう。
しかしこんな特殊な職業でもなければ、「即答できる教養の量」でマウンティングをすることにやはり正義は感じられない。
数学者が電卓を使って何が悪いのだろうか?
個人の暗算能力の多寡など数学においてはどうでもいい話であり、別の分野である。
むしろ計算能力を突き詰めるなら、多分若い子供のほうが成績はいい。
そうじゃなくて、電卓の計算能力を利用した先に、もっと高度な科学があるから。
だからこそ電卓を使っているわけであり、楽をしたくて使っているわけではない。
国会答弁のAIもこれと同じ話だと思うが、どうか。
4. マウンティングを正義として採用する人たち
結局のところ、他人を信用しようとしないような間柄が、理由なのだと思う。
他人の意見を少しずつ取りまとめて判断するような、手数の余裕がないのだろう。
だからこそ、持っている教養を一度に全部を示してもらわないと安心ができない。
マウンティングの勝負は質問された直後の一瞬で決まる。
「マウンティングに耐えらないものは弱いものだから正しくない」という教義が存在する。
人類の科学は議論によって組み立てられているが、その過程がそのようなマウンティング合戦に見えてしまうのだろう。
本物の学者や研究者でも、そういう理解で生きている人が大勢いる。
突っ込みどころがあるのならばそれは正しくないものであり、突っ込むことができる側はそれより正しいものである。その繰り返しによって正義が作られると思っている人たちがいる。
マウンティングをすることが、正義を追及する建設的な行為であると思っている人たちがいる。
しかし、そうやってマウンティングで勝ち続けてきた人たちが絶対に気付かないことがある。その人にとっては、すべての正義の前提を崩してしまうことだから。
マウンティング合戦は、「勝つだけならばクソ簡単である」ということだ。
不毛なことを言ってクソゲーにすればいい。
即答を求めて狼狽させればいい。
権力差を利用して自分が理解しない振りをすればいい。
自分が勝てるところから一歩も動かなければいい。
「突っ込みどころがあるのならばそれは正しくないものであり、突っ込むことができる側はそれより正しいものである」という考えは、短期的には確かに正しい。
しかし、実際にこれを運用して正義を構築するためには、人間同士の強い理性と信頼関係が必須である。
電卓を使って当面の暗算をサボることを許したからこそ、コンピューターによる科学が生まれた。
信頼しあった上でないと達成できないことは、社会にも会社にもたくさんある。
【入試の不平等】教育の機会均等について
4月になって入学シーズンだということで、「教育の機会均等」に関する話題を、ラジオでやっていた。
別に、日本に暮らしていれば中学まではむしろ義務教育であるし、高校も大学も余るほどある。社会人になってから学びなおす制度も整備されている。
不登校や障碍者だって、サポートはされているだろう。形だけなら。
だが実際には、望んだところで学ぶことができない者が、大勢いる。
偏差値というシステムが存在しているからだ。
高校や大学の入試で、裁かれてしまった者が大勢いる。
「教育の機会均等」自体はとっくの昔に達成されているが、実際にはまだ戦争は終わっていない。
多分、例え少子化がもっと進んでも状況は大して変わりはしないと思う。
今日は、偏差値と教育についての自分の考えを書いてみようと思う。
目次:
1. 現在の入試における不平等
学校には物理的な定員があり、その定員以上に希望者が来ているから、偏差値を使って選別をしなければならない。
元をたどって考えてみればそういうことだ。
「教育の機会は均等だよ♪ 合格できるかどうかは知らないけど」ということで話は進んでいるが、その合格できるかどうかのところで、不平等がある。
過去問と同じ問題を出すことができない以上、入学試験の難易度はインフレし続ける。
塾や予備校に小さいころから通わせておかないと勝負にならないため、結局家庭環境や親の所得による勝負になっている。
田舎者や貧乏人は東大で学ぶ資格がない、というのが統計的な事実としてすでに通ってしまっているんだ。
それに、たとえそういう問題を個人の努力で何とかしようとしても、次の問題が立ちはだかる。
大学入試の問題がどれだけクソ問題だったかを思い出してみればいい。
運がよくないと生き残れない、というのも差別の一種であろう。
クソ問題であるが、実際にはそれしか解決方法がない。
入学前の学力で合格不合格を決めているという事実は、「将来性を見ている」ということで正当化されていると思う。
個人的には、学問に素質なんてものは特に必要ないと思うが。
学問はそんなに崇高なものではなく、教えて理解すれば誰だって出来るべきだと考えている。
当人の意思だって必要ないと思っている。そんなものは親や教師の一言で簡単に変わってしまうものだから。
むしろ、本当に指導する内容が同じで教育が平等なのだとしたら、入試なんてものは別にくじ引きで選ぼうがサイコロで選ぼうが大して変わりはしないはずだと思う。
いくらクソ問題だとは言っても、実際に役に立つ科学や文学をエミュレートしてくれているだけまだマシである。
なお、一時期流行った「学生個人の内面で見る」なんてものはもっとクソゲーだ。
勉強できないけど内面には自信ある、なんて奴がどれほどいる?
強烈なウソつき合戦が始まるぞ。
慶応のAO入試なんてすでにそういう戦いだ。
2. なぜ偏差値というものがあるのか
なぜ一つの学校にそんなに希望者が集まってしまうのか?
それはもちろん、その学校に行きたい人が多いからだが、なぜ行きたいのか?
ここにちょっと、考えなければいけないことがある。
学習指導要領はどの学校でも同じ内容だろう?
だからこそ、教育の機会均等が達成されているわけであって。
学費や通学時間で差があるといっても、わざわざ親元を離れて早稲田慶応に通うことが憧れになっている時点でお察しだ。
一応大学になれば、「自ら掲げる教育理念・目的に基づき、自主的・自律的に編成すること」となっているが、実際には結局どこも似たり寄ったりである。
グローバル、新エネルギー、福祉社会、情報通信、クリエイティブ、リーダーシップ。
どの大学のパンフレットを見ても、そんな流行のワードが並んでいるだけである。
まるで政治家のHPに書いてあるマニフェストのように、主張する安全牌がすでに決まり切っている。
「~先生の授業が聞けるからこの大学じゃないとダメ!」なんて寝言は基本的にフィクションである。
どうしても参加したいのだったら、潜りや個人インタビューでもやればいい。正直簡単である。
また、単純な教員の数で選ぶのだとしても、別にそう変わりはしない。
むしろ田舎の人気のないところのほうが学生一人当たりの教員人数は多いだろう。
そこら大学生に、自分の大学の教育理念を喋れるかをどうか試してみればいい。
100%無理だから。(いや、今の時期なら面接対策で暗記した者が少しは残っているかも。)
教育内容に特色が欲しいのならば、専門学校に行けばいい。
しかし大抵の人は教育内容なんてものに興味はないのが現実だ。
合格してよい人生を送ることと、それを許してくれるブランド力。
あとは得意な科目を決めて、結局みんなこのように学校を選んでいる。
偏差値それ自体がブランドになる。
社会という闇において、思考停止を許してくれるのが、ブランドである。
求められているものは、教育ではなくブランドである。
例えば、東京大学のキャンパスと設備をすべて、東京都小笠原村硫黄島に移設したとしたら、どうなるか。
本当に教育や学問が目的で入学するのなら、それでも偏差値は変わらないはずだよね?
それとは別の例えで、試しに全部の二次試験を全国同じ問題にすればどうなるか。
たとえそんな状況になったとしても、大学生はみんな東京に集まるに決まっている。
既成事実によるブランドを抜きにすれば、大学の偏差値は、人口と立地条件で決定されるから。
高校の偏差値は、その大学への入学実績の数で決まる。
なぜなら、東京には会社が多くて就職活動で有利だから。
人が多いからイケてるキャンパスライフが楽しめるから。
ブランドによる虚構を完全に抜きにしたとしても、結局はこうやって選ばれる。
教育なんて関係ないんだよ。
3. 彼らが望んだ社会
「教育の機会が平等に欲しい!」「学びたい!」という言葉は、嘘だ。
そんな言葉で飾ってはならない。
本当のところは、他人を踏みつけたいというエリート精神が、偏差値を必要としている。
人が多くてにぎやかなところに住みたい。
いい企業に就職できる可能性を維持したい。
そういった虚栄心(というか現代社会における死活問題)の結果が、偏差値である。
ブランドという言葉はこういう意味であり、企業としても新入社員を選ぶ際に大いにそれを活用している。
教育機会の不平等の現況たる偏差値は、必要だから運用されている。
そしてそのゲームの勝者は、その状況を心の底では楽しんでいるから、こういう差別的な社会が肯定された。
論理ではなく愛を肯定するOSや、運転免許学科試験のクソ問題のように、現代社会における正義は、死体の数で構成されている。
「反例を必要としない人たち」の思考と生き方
「A=Bでないこと」を証明するためには、それの反例を一つ挙げればいい。
あらゆる科学には反証可能性が必須であり、見えている土地すべてを反例で埋め尽くすことによってのみ、残った部分が真実として確定される。
人類の知恵は全てそうやって積み重ねられているはずだが、その方式を採用しないで生きることを選んだ人たちがいる。
例えば、「スーパー戦隊シリーズでは女性がリーダーになったことがない!これは差別だ!」などと言っている人がいたとする。
というか、実際にいた。戦隊じゃなくて仮面ライダーの例だが。
ツイッターの界隈ではこの手の主張をしている人は良く見かける。
今日はこのケースを使って、「反例を必要としない人たち」のことを書いてみる。
目次:
1. 詳しい解説
「スーパー戦隊シリーズでは女性がリーダーになったことがない!」と言われたところで、実際には全くそんなことはない。明らかに反例はある。
忍者戦隊カクレンジャーでも、未来戦隊タイムレンジャーでも、リーダーは女性だった。
また、(別にレッドがリーダーであるとも限らないが)侍戦隊シンケンジャーでは女性がレッドになった例もある。
同じく日曜朝にやっている仮面ライダーでもそうだ。
女性の仮面ライダーは今やたくさんいるし、設定上だけならば1975年の仮面ライダーストロンガーから存在している。
別にこの程度のことは、オタクめいた細かい知識を出すまでもないことである。ウィキペディアでちょっと調べれば誰でも簡単にわかる。
しかし、「これは差別だ!」と言われたら、確かにそう解釈できる事実もある。
スーパー戦隊の初期メンバーで女性が過半数を超えたことは一度もないし、第一話で出てくる主役ライダーが女性だったことも一度もない。
そして、もし仮にそういう女性キャラが登場するとしたら、東映もバンダイも間違いなくそれを「珍しい材料」としてアピールする。
マーケティング上、戦隊や仮面ライダーは男の子向けにしたほうが売れるという、統計的な確信があり、視聴者のほうもそれを求めている。そういう事実は確かにある。
2. 彼らの方式
「スーパー戦隊シリーズでは女性がリーダーになったことがない!これは差別だ!」と叫ぶ人がいる。
スーパー戦隊の女性がどうだとか言う話はただの一例であるが、この手の主張をする人間は、もっといろいろな場面で見かける。
例えば、「オタクは犯罪者だ!ペドフィリアは犯罪だから処罰するべきだ!」といったような主張。少し前にこのような記事が話題になった。
もっと簡単なところでは、「日本では殺人のような凶悪犯罪が増加している」みたいな話もそうだ。統計的にはとっくに嘘が暴かれているのに、いまだに根強く支持されている。
「日本軍はひどいことをした!反省しなければならない!」も、手法としては同じだ。これは正直探すのも面倒なぐらいたくさん聞くから、記事は貼らないけど。
彼らは、正論が通じない人たちである。しかし、正論を理解しなくてもいい生き方を選んだ人たちだともいえる。
彼らは全員、滅茶苦茶なことを言っている。しかしそこには、確固たる意志がある。
彼らは実際のところ、馬鹿ではない。むしろ高学歴だったりする。
指摘された事実は、わかっていないはずはない。
彼らは事実と戦っているのではなく、イメージと戦っている。
現実ではなく、イメージが憎いから戦っている。
イメージは幻想ではなく、確かに存在している。自らの心の中に。
反例を挙げて倒せるのは、人が書いて記録した理論だけである。
理論は経験でできているから、反例で倒すことができる。
しかしイメージは、自らの心の中にいるから、外部からでは決して倒すことができない。
本気の感情論を理論で倒せるケースなんて、普通無いでしょう?
その証拠に、彼らの側からの反論というものは全く出てこない。
「デタラメ言ってんじゃねぇよ」と指摘されても、その場を逃げて納めるだけで、ほとぼりが冷めたらまた同じ主張を始める。
デジタルディバイドもあるのだろうが、彼らが論理的な言い分を出しているのを見たことがない。なぜなら最初から論理なんかで動いていないから。
「嘘だというのなら証拠を出してみろよ」という手法自体が、彼らの文化とは異なっているんだ。
理論なんてものは元々、その当人の理性に「お願いして採用してもらう」しかない程度のものだ。
3. 「嘘を通せる強者」の世界
彼らの生き方は、いつも引用しているこの記事で説明される。
理論ではなくイメージを信じて生きることは、すなわち愛を信じて生きること。
他人(や自分)がどう感じているかが重要であり、事実などはどうでもいい。
理論や経験則も、どうでもいい。今現在、他人や自分が何を感じているかだけを判断して生きる。
彼らが採用しているのはこういった生き方だ。
こういう人種に対しては、通常の歩み寄りは不可能だと考えたほうがいい。
人体の判断力を運用しているOSからしてすでに違う。
このOSは、機能が制限される代わりに、マシンパワーが足りなくても軽快に生きていけるという特徴がある。
すなわち、自分の頭が弱くても、他人の感覚に従って生きていれば、(現代の豊かな社会でなら)自由に生きれて飢えもしない。自分の勝手な感情も生かすことができる。
現代社会においては割と理想的なOSかもしれない。
結局は、人間の意識の違いなのだろう。人間の能力の違いなのだろう。
頭を使って自分で納得しなければならないことを、途中で放棄してしまった人たちなんだろう。
このOSがシェアをとった市場においては、すべての事実は反故にできる。
例えばもし仮に、次のスーパー戦隊が「女性4人、ホワイトだけが男性、追加戦士も女性」みたいな構成だったとしよう。
こういう事実が仮にあったとしても無駄である。
「女性がメインのスーパー戦隊が42年の歴史で一つだけしか存在していない!」
「映画の過去作品オールスターでは男性ばかりしか出てこない!」
「過去のほかの戦隊に比べてグッズの売り上げが芳しくない!差別だ!」
などと言い始める。
もともと、イメージだけを判断の基準にしているから、どんな理論や事実があろうと、好きなようにしか解釈をしない。
さすがにここまで馬鹿ではないって?
実際に彼らは、上記の女性戦隊に対する差別と同じレベルのことを言い続けている。
太平洋戦争が終わってから70年は経っているのに、「日本軍は反省を!」とか言っている人がいまだにたくさんいるでしょう?
感情論ならば、例えどんな話でも有効性をもって通せてしまう。
そして、イメージなんてものは簡単に作れてしまう。バカが多ければ多いほど。
それは恐ろしい社会であるが、強者にとっては居心地の良い社会だ。
声が大きい者、手駒が多い者、あるいは、嘘を通されても実害がない立場である者。
そういったものが得をする社会になっている。
「嘘をつく権利」が、流通して消費される世界である。
石油資源の消費や、地球環境問題のように、根本的な解決は何もなされていないのに、目をつぶる能力を行使しあっている。
「こういう社会でも俺は構わない」というのが、多くの人が採用した答えなのだと思う。